飲食店の主人テナルディエとであった。テナルディエはだれとでも交わるのをきらわないで、ブーラトリュエルとも知り合いだった。
「あの男は徒刑場にいたことがあるはずだ。」とテナルディエは言った。「だからいったいどんな奴《やつ》がやってきたのか、どんな奴がやって来るか、わかったもんじゃない。」
ある晩小学校の先生が言うには、昔だったらブーラトリュエルが森の中で何をするつもりであったか官憲の方で調査したはずである、そしてあいつも何とかしゃべらなければならなかっただろう、必要によっては拷問にかけられることもあったろう、で結局ブーラトリュエルはたとえば水責めの拷問にはたえきれなくて白状したかも知れない。するとテナルディエは言った、「ひとつ酒責めにしてみましょうや。」
彼らは手段を講じて、その老道路工夫に酒を飲ました。しかしブーラトリュエルは酒をたくさん飲んで、口はあまりきかなかった。彼は大酒家の喉《のど》と裁判官の用心さとを、いかにも巧みにまたみごとな割合にあわせ用いた。けれどもしつこく問いただして、彼の口からもれた曖昧《あいまい》な二、三の言葉をいっしょに繋《つな》ぎ合わしてみて、結局テナルディエと先生とは次のことを探り得たと思った。
ブーラトリュエルはある朝、夜の明け方に、仕事に出かけて行くと、森の片すみの藪《やぶ》の下にくわと鶴嘴《つるはし》とを見い出して驚いたらしい。それはちょうど隠されたようにして[#「隠されたようにして」に傍点]置いてあった。けれども彼は、それをたぶん水くみ爺さんのシー・フールのくわと鶴嘴とであろうと思って、別に気にも留めなかったらしい。けれどもその日の夕方、彼はある大木の後ろに身を隠して先方の目をのがれながら、「全くその辺の者ではないが彼ブーラトリュエルがよく知ってる一人の男」が、道路から森の最も深い方へはいってゆくのを見たらしい。テナルディエはそれを翻訳して「徒刑場の仲間の一人[#「徒刑場の仲間の一人」に傍点]」だとした。ブーラトリュエルは頑固《がんこ》にその名前を言うことを拒んだのである。その男は、大きな箱かあるいは小さな鞄《かばん》みたような何か四角な包みを持っていた。ブーラトリュエルは驚いた。それでも「その男」の跡をつけてみようという考えを起こしはしたが、それも七、八分過ぎてからであったらしい。彼は機を失していた。男は既に木立ちの茂みへはいってしまい、あたりは夜になっていて、ブーラトリュエルは男を見つけることができなかった。そこで彼は森の入り口を番してみようと決心した。「月が出ていた。」二、三時間後に、ブーラトリュエルはその男が森から出て来るのを見た。しかしもう小さな鞄は持っていず、鶴嘴とくわを持っていた。ブーラトリュエルは男をやり過ごした。近づいてみようという考えは起こさなかった。なぜなら、彼はその男が自分よりも三倍も力がある上に鶴嘴を持っていることを考えたからである。もしその男が自分を見て取り、また自分から見て取られたことを知ったなら、きっと自分を打ち殺すかも知れないと思ったからである。二人の古い仲間がふいに出会った場合の感情としては恐ろしいことである。しかしそのくわと鶴嘴とは、ブーラトリュエルにとっては一道の光明であった。彼はその朝見た藪《やぶ》の所へ駆けて行った。するとそこにはもうくわも鶴嘴もなかった。それから見ると、男は森の中にはいり込み、鶴嘴で穴を掘り、箱を隠し、くわで穴を再び埋めたものと、彼は断定した。しかるにその箱は、人間の死体を入れるにはあまり小さかったので、金がはいっていたものであろう。それで彼は捜索をはじめた。彼は森の中を方々さがし回り尋ね歩いた。新しく土地が掘り返されたように見える所はどこでも掘ってみた。しかしすべてむだに終わった。
彼は何も「掘りあて」なかったのである。モンフェルメイュではもうだれもそのことを念頭に置かなかった。ただ二、三人の人のいいおしゃべりな女たちは言った。「ガンニーの道路工夫の爺さんがただでそんな大騒ぎをするものですか。きっと悪魔がきたのですよ。」
三 鉄槌の一撃に壊《こわ》るる足鎖の細工
同じ一八二三年の十月の末に、ツーロンの住民は、軍艦オリオン号が大暴風雨に会った後、損所を修理するために入港してくるのを見た。このオリオン号というのは、後にはブレストで練習艦として用いられたが、当時は地中海艦隊のうちに編入されていたものである。
その艦は、荒れた海のためにひどく損《いた》んでいたが、港にはいって来るとすこぶる偉観であった。どういう旗を掲げていたかは今記憶にないが、その旗のために港からは規定の十一発の礼砲が放たれ、その一発ごとに艦からも答礼砲が返されたため、つごう二十二発の大砲が発せられた。およそ大砲の連発のうちには種々な意味がこめられていたのである。王国および軍国の礼儀、騒然たる儀礼の交換、礼式の信号、海上と砲台との儀式、毎日すべての要塞《ようさい》および軍艦から迎えらるる日の出と日没、港の開始と閉塞、その他種々のものが。文明社会は、各地において毎二十四時間ごとに、無益な大砲を十五万発も発射している。一発を六フランとすれば、一日に九十万フランが、一年に三億フランが、煙となるわけである。そしてそれもただ一部の項目だけでそうである。その間に一方では、貧しい人々は飢えている。
一八二三年は、復古政府が「スペイン戦争時代」と呼んだ年である。
その戦争一つのうちには、多くの事変が含まっており、多くの特殊な事がらが混入していた。ブールボン家にとって重大な家系問題。フランス王家がマドリッドの王家を援助し保護して、いわゆる本家の勤めを尽したこと。北方の諸政府に隷属《れいぞく》服従していっそう煩雑《はんざつ》をきたした、フランスの国民的伝統への表面上の復帰。アングーレーム公が、自由派の空想的な虐政と争っていた宗教裁判所の実際的な古来からの虐政を、いつもの穏和な様子にも似ず堂々たる態度をもって抑制して、自由派の諸新聞からアンデュジャールの英雄[#「アンデュジャールの英雄」に傍点]と呼ばれたこと。サン・キュロット(反短ズボン派――過激共和党)がデスカミザドス[#「デスカミザドス」に傍点](反シャツ派)の名の下に復活して、有爵未亡人らに恐慌をきたさしめたこと。王政が無政府制と綽名《あだな》された進歩に対して障害となったこと。一七八九年の革命の理論が底深く浸潤せんとする途中で、にわかに中断されたこと。フランスの革命思想を親しく見た全欧州の警戒の声が世界中に響き渡っていったこと。総司令官フランス王子と相並んで、後にシャール・アルベールと言われたカリンニャン大侯が、義勇兵として擲弾兵《てきだんへい》の赤い絨毛《じゅうもう》の肩章をつけて、民衆を圧伏せんとする諸国王らの企てに加入したこと。帝国時代の兵士らは再び戦場についたが、八年間の休息の後をうけて既に老衰して元気なく、また白い帽章をつけていたこと。三十年前コプレンツにおいて白旗が打ち振られたように([#ここから割り注]訳者注 革命時代王党の亡命者らが一軍を編成したことを言う[#ここで割り注終わり])三色旗が勇壮なる一群のフランス人によって外国において打ち振られたこと。フランスの軍隊に混入した僧侶ら。銃剣によって抑圧された自由と新時代との精神。砲弾の下に屈伏された主義。その精神によってなしたところのものをその武器によって破壊するフランス。これに加うるに、売られたる敵の将帥らと、逡巡《しゅんじゅん》する兵士らと、数百万の金によって包囲された都市。あたかも不意を襲われて占領された火坑におけるがごとく、軍事上の危険の皆無としかも爆発の可能。流血も少なく、得られたる名誉も少なく、ある者には恥辱があり、何者にも光栄がなかったこと。かくのごときが実に、ルイ十四世の後裔《こうえい》たる諸大侯によってなされ、ナポレオンの下より輩出した諸将軍によって導かれたこの戦争の実状であった。この戦争はもはや、あの大戦役をもまたあの大政策をも思い起こさしめない悲しき運命を荷《にな》っていた。
軍事上の二、三の事蹟は真摯《しんし》なものであり、なかんずくトロカデロの占領はみごとな武勲であった。しかし畢竟《ひっきょう》するに、吾人《ごじん》はくり返して言うが、本戦争のラッパは亀裂のはいった音をしか出さなかった。その全体は曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。その似而非《えせ》戦勝の名前を受くるに、フランスが困惑を感じたことは、史眼に照らして正当である。防御の任を帯びたスペインのある将軍らは、明らかにあまりにたやすく屈伏したらしい。その戦勝は見る人の心に買収の想像を起こさせる。勝利を得たというよりもむしろ将軍らを買い得たかの観がある。そして戦いに勝った兵士らは屈辱を負って国へ帰った。軍旗のひだのうちにフランス銀行[#「フランス銀行」に傍点]の文字を読み得る所には、戦争の光輝は薄らぐ。
サラゴサの城壁が頭上に恐ろしく倒れかかる下にあってなお泰然たるを得た一八〇八年の兵士らは、一八二三年には、諸|要塞《ようさい》のたやすい開城に対して眉をしかめ、パラフォス将軍([#ここから割り注]訳者注 一八〇八年にサラゴサを護ったスペインの勇将[#ここで割り注終わり])を惜しみはじめた。おのれの前にバレステロスを有するよりも、むしろロストプシンを有するを好むのがフランス人の気質である([#ここから割り注]訳者注 前者は当時の敵の将軍、後者はナポレオンのロシア侵入の時モスコーを焼き払ったロシアの将軍[#ここで割り注終わり])。
なおいっそう重大にしてここに力説するが適当である他の一見地より見るならば、この戦争は実に、フランスにおいて軍国的精神を傷つけながら、他方には民主的精神を激怒せしめたのである。それは一つの隷属を贏《か》[#「贏」は底本では「※[#「贏」の「貝」に代えて「果」、(二)−27−3]」]ち得んとする企図であった。この戦役においては、民主制の子孫たるフランス兵士の目的は、他人に課すべき軛《くびき》の獲得であった。忌むべき矛盾である。フランスは諸民衆を窒息せしめんがためにではなく、反対にそれを覚醒《かくせい》せしめんがために作られてるのである。一七九二年以後欧州のあらゆる革命は実はフランス革命の一分子である。自由の精神はフランスより放射している。それは太陽のごとく煌々《こうこう》たる事実である。そを見ざる者は盲者なり! とはボナパルト自身の言葉である。
一八二三年の戦争は、健気《けなげ》なるスペイン国民への加害であり、従って同時にフランス革命への加害であった。その恐るべき暴行を犯したところのものはフランスであった、しかもそれは暴力をもってであった。なぜなれば、独立戦争を外にしては、すべて軍隊がなすところのものは暴力をもってなされるものであるから。絶対服従[#「絶対服従」に傍点]という言葉はそれをさし示すものである。軍隊というものは、結合の不思議な傑作であって、多くの無力の合計より力が生じてくる。人道によってなされ、人道に対抗してなされ、人道をふみつけにしてなされる戦争なるものは、かくして初めて説明し得らるる。
ブールボン家の人々について言うならば、一八二三年の戦役は彼らにとっては致命的なものであった。彼らはこの戦いをもって成功であるとした。そして圧迫をもって一つの思想を屏息《へいそく》せしむることにいかなる危険があるかを少しも見なかった。浅慮なる彼らは謬見《びゅうけん》をいだいて、罪に対する非常なる鈍感をあたかも力の一要素ででもあるかのようにおのが館《やかた》のうちに導き入れた。待伏陰謀の精神は彼らの政策のうちにはいってきた。一八三〇年([#ここから割り注]訳者注 七月革命の年[#ここで割り注終わり])は一八二三年に芽を出した。スペイン戦争は彼らの評議会において、武力断行と神法に対する冒険とを弁護する論拠となった。フランスはスペインに専制君主[#「専制君主」に傍点]をうち立てながら、自国内に専制君主をよくうち立てるを得た。両
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