唾《なまつば》が湧く。そしてその生唾こそ彼の求むる一語である。その異常なしかも下らない勝利の前に、その優勝者なき勝利の前に、この絶望の男はすっくと立つ。彼はその雄大に圧倒さるるが、しかもその虚無をみる。そして彼はその上に痰《たん》を吐きかけるのみでは足れりとしない。数と力と物質との優勢の圧迫の下に、彼は心に一つの言葉を、糞《くそ》を見いだす。くり返して言う。それを叫び、それをなし、それを見いだすこと、それは実に勝利者となることである。
 大審判の精神は、危急の瞬間にこの無名の男の中に入りきたった。あたかもルージュ・ド・リールがマルセイエーズ([#ここから割り注]訳者注 フランスの国歌[#ここで割り注終わり])を見いだしたがごとくに、高きより来る息吹《いぶ》きの幻によって、カンブロンヌはワーテルローの言葉を見いだした。聖なる颶風《ぐふう》の一息は飛びきたってその二人を貫通し、二人は慄然《りつぜん》と身を震わし、そして一人は最上の歌を歌い、一人は恐るべき叫びを発する。タイタンの軽侮のごときその一言を、カンブロンヌはただに帝国の名において全欧州に投げつけるのみではない。それではあまりに足りないであろう。彼はそれを革命の名において過去に投げつける。人はそれを聞いて、巨人の古い魂がカンブロンヌのうちにあるのを認める。語るはダントンであり怒号するはクレベルであるかのようである。
 カンブロンヌの一言に、イギリス人の声は答えた、「打て!」砲列は火炎を発し、丘は震動し、それらのすべての青銅の口からは最後の恐ろしい霰弾《さんだん》の噴出がほとばしり、地平を出る月の光にほの白く見える広い煙はまき上がった。そして煙が散じた時には、そこにはもはや何物も残っていなかった。恐るべき残兵らは殲滅《せんめつ》されていた。近衛は全滅していた。生きたる角面|堡《ほ》の四壁はそこに横たわり、ただ死骸の間にそこここにあるうごめきがようやくに見らるるのみだった。かくのごとくして、ローマの軍団よりも偉大なフランスの近衛諸連隊は、雨と血潮とに湿った地上に、陰惨な麦畑の中に、モン・サン・ジャンにおいて消滅したのである。いまやその場所を、ニヴェルの郵便馬車を御しているジョゼフが、朝の四時に、口笛を吹きつつ愉快げに馬を鞭《むち》うって通るのである。

     十六 指揮官へは何程の報酬を与うべきか

 ワーテルローの戦いは一つの謎《なぞ》である。勝利者にとっても敗北者にとっても、それは等しく模糊《もこ》たるものである。ナポレオンにとっては、それは一つの恐慌であった。(終局を告げたる一戦、終了したる一日、救われたる誤れる方略、翌日のたしかなりし大成功、すべては恐慌をきたせる恐怖の一瞬によりて失われぬ。――ナポレオン、セント・ヘレナの口述。)そしてブリューヘルはそこに砲火を見たばかりであり、ウェリントンは少しも理解するところなかった。報告を見てみるがよい。作戦日誌は曖昧《あいまい》であり、記述は混乱をきわめている。後者は口の中でつぶやき、前者はどもっている。ジョミニーはワーテルローの戦いを四つの時間にわけている。ムッフリングはそれを三段の変化に区分している。シャラスのみがただ一人、ある点については吾人《ごじん》は彼と異なった見解を有しはするが、とにかく鋭い眼光をもって、聖なる運命と争う人間の才力のその破滅の特相をつかんでいる。他のすべての史家はある眩惑《げんわく》を感じ、その眩惑のうちに摸索している。実際それは、閃々《せんせん》たる一日、軍国の崩壊である。そして諸国王らが唖然《あぜん》たるまに、すべての王国をまき込み、武力の失墜と戦役の覆没とを導いた。
 超人間的必然性の印せられたるその事変のうちには、人間の与える所は何もない。
 ワーテルローをウェリントンより奪いブリューヘルより奪うことは、イギリスおよびドイツより何かを奪うことになるであろうか? いや。光輝あるイギリスもいかめしきドイツも、ワーテルローの問題においては取るに足りない。幸いなるかな、民衆は痛ましき剣戟《けんげき》の暴挙の外にあって偉大なることを得る。ドイツもイギリスもまたフランスも、剣の鞘《さや》のうちに保たれてはいない。ワーテルローがただいたずらなる剣の響きにすぎないその時代において、ドイツはブリューヘルの上にゲーテを有し、イギリスはウェリントンの上にバイロンを有する。広大なる思潮の洶湧《きょうよう》は十九世紀に固有のものであり、そしてその曙《あけぼの》のうちに、イギリスとドイツとは壮麗な光輝を有する。彼らはその思想するところによって壮大なのである。彼らが文化にもたらした一般水準の啓発高揚こそ、彼らが内包していたものである。彼ら自らが源であって、一つの事件が源ではない。十九世紀における彼らの強大は、その源をワー
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