霰弾の連発の跡が刻まれてるのが見られる。プロシア軍はジュナップに突入した。かくもすみやかに勝利を得たことに彼らは憤激していたに違いない。追撃は猛烈であった。ブリューヘルは敵を殲滅《せんめつ》するように命じた。ロゲーは、フランスの全|擲弾兵《てきだんへい》を死をもって威嚇して、各自に一人のプロシア兵の捕虜をつれきたらしめんとする、痛むべき実例を残していた。しかし今やブリューヘルはロゲーにもまさって残虐であった。年少近衛兵の将軍デュエームは、ジュナップのある宿屋の門口に追いつめられ、死の部下ともいうベき一軽騎兵に剣を差し出すと、軽騎兵はその剣を取ってその捕虜を刺した。戦勝は敗北者を虐殺することによって完成された。しかし吾人《ごじん》は歴史なるがゆえに、吾人をして処罰的に言わしむれば、老ブリューヘルは自らおのれの名を汚した。かくてその残虐は災害をなお大ならしめた。絶望的の壊走《かいそう》は、ジュナップを過ぎ、レ・カトル・ブラを過ぎ、ゴスリーを過ぎ、フラーヌを過ぎ、シャールロアを過ぎ、テュアンを過ぎ、そして国境に至ってようやく止まった。悲しいかな、いかなる者がそのように逃亡したのであるか? それは実にあの大陸軍《グランド・アルメ》であったのである。
 有史いらい、かつて見なかった最高の勇武の、その惑乱、その恐慌、その滅落、それはゆえなくして起こったことであろうか? いや。上帝の巨大なる手の影はワーテルローの上に落とされていたのである。それは運命の一日であった。人間以上の力がその日を現出せしめたのであった。それゆえに、彼らの頭も恐怖のうちに屈したのである。それゆえに、彼らの偉大なる魂も剣をすてて降ったのである。全欧州を征服した人々も一敗地に塗《まみ》れて、何ら言葉を発する術《すべ》もなく、何らなすべき術《すべ》もなく、ただ影のうちに恐ろしきもののあるのを感じた。それは運命のしからしむるところであった[#「それは運命のしからしむるところであった」に傍点]。その日、人類の前景は変じた。ワーテルローは十九世紀の肱金《ひじがね》である。その偉人の消滅は、一大世紀の出現に必要であった。人の左右し得ざるある者がそれを支配した。英雄らの恐慌はそれで説明せらるる。ワーテルローの戦いのうちには、雲霧以上のものがあった。流星のごときものがあった。神が通過したもうたのである。
 夜の幕のおりる頃、ジュナップの近くの野の中で、ベルナールとベルトランとは、考えにふけった荒々しい不気味な一人の男の外套の裾《すそ》をとらえて引き止めた。その男はそこまで壊走の波に押し流されてきて、馬から地上におり立ち、馬の手綱を小脇にはさみ、昏迷した目つきをして、ただ一人ワーテルローの方へ引き返さんとしていたのである。それはなお前進せんと試みてるナポレオンであった。崩壊した夢想をなお夢みてる偉大なる夢中遊行者であった。

     十四 最後の方陣

 近衛兵の数個の方陣は、流れの中の巌《いわお》のごとくに、壊走《かいそう》の中にふみ止まって、夜になるまで支持していた。夜はきたり、また死もきた。彼らはその二重の暗黒を待っていた。その包囲のうちに泰然と身を任した。各連隊は互いに孤立し、四方に寸断されてる全軍との連絡はなく、各自に最後を遂げていった。その最後の戦闘をなさんがために彼らは、あるいはロッソンムの高地の上に、あるいはモン・サン・ジャンの平地の中に、陣地を占めていた。見捨てられ、打ち敗られ、恐るべき様をしたそれら陰惨な方陣は、そこに驚くべき臨終を遂げた。ユルム、ヴァグラン、イエナ、フリーランは、そのうちで戦死を遂げた。
 まだ薄明りの晩の九時ごろ、モン・サン・ジャンの高地の裾《すそ》に、なおその方陣の一つが残っていた。そのいたましい谷間のうちに、さきには胸甲騎兵らがよじのぼり今はイギリス兵の集団に満たされているその坂の麓《ふもと》に、勝ちほこった敵砲兵が集中する砲火の下に、弾丸の恐るべき雨注の下に、その方陣は戦っていた。それはまだ無名の一将校カンブロンヌによって指揮されていた。敵弾の斉発ごとに、方陣はその兵数を減じ、しかもなお応戦していた。絶えずその四壁を縮小しながら、霰弾《さんだん》に応答するに銃火をもってした。逃走兵らは息を切らして時々立ち止まりながら、しだいに弱りゆくその陰惨な雷鳴のごとき響きを、遠くからやみのうちに聞いたのだった。
 その一隊がもはや一握りの兵数にすぎなくなった時、その軍旗がもはや一片のぼろにすぎなくなった時、弾丸《たま》を打ちつくした彼らの銃がもはや棒切れにすぎなくなった時、うずたかい死骸《しがい》の数がもはや生き残った集団よりも多くなった時、その荘厳なる瀕死《ひんし》の勇者のまわりにはある聖なる恐怖が勝利者らのうちに萌《きざ》して、イギリスの砲兵は息を
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