が見えなかった。彼らはただ人馬の潮の駆け上がって来る響きに耳を澄ましていた。その三千騎のしだいに高まる響きを、大速歩の馬の交互に均斉した蹄《ひづめ》の音を、甲冑《かっちゅう》の鳴る音を、剣の響きを、そして一種の荒々しい大きな息吹《いぶ》きの音を聞いていた。恐るべき一瞬の静寂が来ると、次に忽然《こつぜん》として、剣を高くふりかざし、腕の長い一列が高地の頂に現われ、兜《かぶと》とラッパと軍旗と、それから灰色の髯《ひげ》をはやした三千の頭が「皇帝万歳!」を叫びながら現われた。すべてそれらの騎兵は今や高地の上に出現し、あたかも地震の襲いきたったがようだった。
と突然に、惨憺《さんたん》たる光景を呈した。イギリス軍の左方、フランス軍の方からいえば右方に当たって、胸甲騎兵の縦列の先頭は恐るべき叫びをあげて立ち上がった。方陣をも大砲をも殲滅《せんめつ》せんとする狂猛と疾駆とに駆られ熱狂して高地の頂点に達した胸甲騎兵は、彼らとイギリス兵との間に一つの溝《みぞ》を、一つの墓穴を見いだしたのである。それはオーアンからの凹路《おうろ》であった。
それこそ恐怖すべき瞬間だった。峡谷が、意外にも、馬の足下に断崖《だんがい》をなし、両断崖の間に二|尋《ひろ》の深さをなし、口を開いてそこに待ち受けていた。その中に第二列は第一列を突き落とし、第三列は第二列を突き落とした。馬は立ち上がり、後方におどり、仰向《あおむけ》に倒れ、空中に四足をはねまわし、騎兵を振り落とし押しつぶした。もはや退却の方法はない。全縦隊は既に発射された弾丸に等しかった。イギリス軍を粉砕せんための力は、かえってフランス軍を粉砕した。苛酷な峡谷は自ら満たさずんばやまない。人馬もろともそこにころげ込んで、互いに圧殺しながらその深淵のうちに一塊の肉片と化し去ってしまった。そしてその墓穴が生きたる人をもって満たされた時、その上を踏み越えて他の者は通りすぎた。デュボアの旅団のほとんど三分の一はその深淵のうちに落ちてしまった。
それが敗戦のはじまりであった。
土地の言い伝えによれば、もちろん誇張されてはいようが、二千の馬と千五百人の人とがオーアンの凹路《おうろ》の中に埋められたという。その数にはもとより、戦闘の翌日そこに投げ込まれた他の死骸《しがい》のすべてをも算入したものであろう。
ついでに一言しておくが、一時間以前に単独攻撃をしながらルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは、かかる難関に遭遇したデュボアの旅団であった。
ナポレオンは、ミローの胸甲騎兵をしてその襲撃を行なわしめる前に、その土地をよく観測した。しかし凹路を認めることができなかった。それは高地の表面に一筋のしわをも見せていなかったのである。けれども、ニヴェルの街道との交差角を示している小さな白い礼拝堂から気づいて注意を呼び起こされ、彼は案内人のラコストに、おそらく障害物の有無についてであったろうが、何か聞きただした。案内人は否と答えたのである。一人の百姓の頭の一振りからナポレオンの破滅は生じきたったとも言い得るであろう。
その他の災いがなお続いて起こりきたることになった。
しかしナポレオンはその戦いに勝利を得ることが可能であったろうか? 吾人《ごじん》は否と答える。何ゆえに? 敵がウェリントンであったがためか、またはブリューヘルであったがためか? いや。それは実に神の意《こころ》であったからである。
ボナパルトがワーテルローの勝利者となる、それはもはや十九世紀の原則に合っていなかった。ナポレオンがもはや地位を占めることのできぬ他の多くの事実が生じかかっていた。ナポレオンに対して快からぬ世運の意志は既に疾《と》くに宣言されていた。
この巨人の倒るべき時機はきたっていた。
人類の運命のうちにおけるこの一人の過度の重さは、平衡を乱していた。この個人はおのれ一個で、一団の天下の衆人よりもいっそうの重みを有していた。ただ一個の頭の中へ過剰に集中された人類の全活力、一人の頭脳へ集められた全世界、もしそれが持続したならば文化の破滅をきたしたであろう。いまや乱すべからざる最高の公明は、考慮をめぐらすべき時機に立ち至っていた。物質上の秩序におけると同じく精神上の秩序においても規定の重力関係があって、その関係の基礎となるべき原則および要素は、おそらく不満の声を発していたであろう。煙る血潮、みちあふれた墳墓、涙にくれてる母親、それらは恐るべき論告者である。地にしてあまりに重き荷に苦しむ時には、神秘なる呻吟《しんぎん》の声が影のうちより発し、無限の深みにまでも達する。
ナポレオンは既に無窮なるもののうちにおいて告発され、その墜落は決定されていた。
彼は神のわずらいとなっていた。
ワーテルローは一個の戦闘ではない。それは世界の方向転換である。
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