に満ちていて、祈願の色がこもっていた。その視線をたどってみると、壁に釘付けにされてる十字架像に目を据えてるのだった。
 その時以来、マドレーヌ氏の姿はファンティーヌの目には異なって映るようになった。彼女には彼が光明に包まれてるように思えた。彼は一種の祈祷のうちに我を忘れていた。彼女はあえて彼のその心を妨げず長い間ただ黙ってながめた。がついに、彼女はおずおずと口を開いた。
「そこに何をしていらっしゃいますの。」
 マドレーヌ氏はもう一時間もそうしていたのである。彼はファンティーヌが目をさますのを待っていた。彼は彼女の手を取り、その脈をみて、そして答えた。
「加減はどうです。」
「よろしゅうございます。よく眠りました。」と彼女は言った。「だんだんよくなるような気がします。もう大したことではありませんわ。」
 彼はその時、ファンティーヌが最初になした問いをしか耳にしなかったかのようにそれに答えて言った。
「私は天にある殉教者に祈りをしていました。」
 そして彼は頭の中でつけ加えた、「地上にあるこの受難者のために。」
 マドレーヌ氏は前晩とその午前中とを調査に費やしたのだった。今ではもうすべてを知っていた。ファンティーヌの痛ましい身の上を詳細に知っていた。彼は続けて言った。
「あわれな母親、あなたはずいぶん苦しんだ。不平を言ってはいけません。今ではあなたは天から選ばれた者の資格を持っている。人間はいつもそういうふうにして天使となるものです。しかしそれは人間の罪ではない、他になす術《すべ》を知らないからです。あなたが出てこられたあの地獄は天国の第一歩です。まずそこから始めなければなりません。」
 彼は深いため息をついた。けれど彼女は二本の歯の欠けた崇高な微笑《ほほえ》みを彼に示した。
 ジャヴェルの方では、その晩一つの手紙を書いた。翌朝自らそれをモントルイュ・スュール・メールの郵便局に持って行った。それはパリーへ送ったもので、あて名には警視総監秘書シャブーイエ殿[#「警視総監秘書シャブーイエ殿」に傍点]としてあった。警察署のあの事件が盛んに噂の種となっていたこととて、その手紙が発送される前にそれを見てあて名の文字にジャヴェルの手蹟《しゅせき》を見て取った局長や他の人々は、それがジャヴェルの辞表だと思った。
 マドレーヌ氏はまた急いでテナルディエ夫婦の所へ手紙を書いた。ファンティーヌは彼らに百二十フラン借りになっていた。彼は三百フラン送って、そのうちからすべてを差し引き、なお母親が病気で子供に会いたがっているから、すぐに子供をモントルイュ・スュール・メールに連れて来るようにと言ってやった。
 そのことはテナルディエを驚かした。「畜生、子供を手放してたまるものか。」と彼は女房に言った。「この雲雀《ひばり》娘がこれから乳の出る牛になったというものだ。わかってらあね。ばか者があのおふくろに引っかかったのだ。」
 彼は五百フランとなにがしかの覚え書きをうまく整えて送ってきた。この覚え書きのうちには三百フラン余りの明らかな二つの内訳がのっていた。一つは医者の礼で他は薬剤師の礼で、いずれもエポニーヌとアゼルマとの長い病気の手当てと薬の代であった。前に言ったとおりコゼットは病気にかかりはしなかったのである。ただ名前を変えるという些細《ささい》な手数だけでよかった。テナルディエは覚え書きの下の方に三百フラン受け取り候[#「三百フラン受け取り候」に傍点]と書きつけた。
 マドレーヌ氏はすぐにまた三百フラン送って、早くコゼットを連れてきてくれと書いてやった。
「なあに、子供を手放すものか。」とテナルディエ[#「テナルディエ」は底本では「エナルディエ」]は言った。
 そうこうするうちにもファンティーヌは回復しなかった。相変わらず病舎にいた。
 修道女たちが「その女」を受け取って看護したのは初めはいやいやながらであった。フランスの寺院にある浮き彫りを見た者は、賢い童貞らが不潔な娘らをながめながら、下脣《したくちびる》をとがらしているのを思い起こすだろう。貞節な婦人の不運な女に対するこの古来の軽侮は、女性の威厳より来る最も深い本能の一つである。でこの修道女たちは、宗教のためになお倍加してその気持を経験したのである。しかしやがてファンティーヌは彼女たちの心をやわらげた。彼女は謙遜でやさしい言葉を持っていた、そして彼女のうちにある母性は人の心を動かした。ある日、彼女が熱に浮かされながら次のように言うのを修道女たちは聞いた。「私は罪深い女でした。けれど子供が私の所へ来るならば、それは神様が私をお許しなされたことになりますでしょう。悪い生活をしている間は、私はコゼットをそばに呼びたくありませんでした。私はコゼットのびっくりした悲しい目付きを見るのにたえられなかったでしょう。けれども私が悪い生活をしたのもあの児のためだったのです。だから神様は私をお許し下さるのです。コゼットがここに来る時、私は神様のお恵みを感ずるでしょう。私は子供を見つめましょう。その罪ない子供を見ることは私のためにいいでしょう。あの児はまったく何にも知りません。ねえ皆さん、あの児は天の使いですわね。あれくらいの年では、翼はまだ決して落ちてはいませんわ。」
 マドレーヌ氏は日に二度ずつ彼女を見舞ってきた。そのたびごとに彼女は尋ねた。
「じきにコゼットに会えましょうか。」
 彼は答えた。
「たぶん明朝は。今に来るかと私も始終待ち受けているのです。」
 すると母親の青白い顔は輝いてきた。
「ああ、そしたらどんなにか私は仕合わせでしょう!」と彼女は言った。
 さて前に彼女は回復しなかったと言ったが、いやかえって容態は一週ごとに重くなるようだった。二つの肩胛骨《けんこうこつ》の間の露《あら》わな肌の上に押し当てられた一握りの雪は、急に皮膚排出を抑止してしまったので、その結果数年来の病芽がにわかに激発したのだった。当時、胸部の病気の研究ならびに処置についてはラエネックのみごとな説が一般に奉じられつつあった。医者はファンティーヌを診察して頭を振った。
 マドレーヌ氏は医者に言った。
「いかがでしょう。」
「会いたがっている子供でもありませんか。」と医者は尋ねた。
「あります。」
「では至急お呼びなさるがよろしいでしょう。」
 マドレーヌ氏は身を震わした。
 ファンティーヌは彼に尋ねた。
「お医者様は何と言われまして?」
 マドレーヌ氏は強《し》いてほほえんだ。
「早くあなたの子供を連れて来るようにと言いました。そうすれば丈夫になるだろうと。」
「ええ、そうですとも!」と彼女は言った。「けれどもテナルディエの人たちはいったいどうしたのでしょう。私のコゼットを引き留めておくなんて。おお、娘はきますわ! ああとうとう幸福が私のそばに!」
 けれどもテナルディエは「子供を手放さ」なかった。そしていろいろな口実を構えた。コゼットはまだ少し身体が悪くて冬に旅はできないとか、あるいはまた、近所にこうるさい負債が少しずつ残っていてその書き付けを集めているとか、いろいろなことを。
「私は人をやってコゼットを連れてこさせよう。」とマドレーヌさんは言った。「もしやむを得なければ自分で行こう。」
 彼はファンティーヌの言葉どおりに次のような手紙を書き、それに彼女の署名をさした。

[#ここから2字下げ]
 テナルディエ殿
この人へコゼットを御渡し下されたく候。
種々の入費は皆支払うべく候。
謹《つつし》みて御|挨拶《あいさつ》申し上げ候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ファンティーヌ

 ちょうどその間に大事件が持ち上がった。人生が形造られてる不可思議なる石塊をいかによく刻まんとするもむだである、運命の黒き鉱脈は常にそこに現われて来る。

     二 ジャン変じてシャンとなる話

 ある朝マドレーヌ氏は書斎にいて、自らモンフェルメイュに旅する場合のために市長としての緊急な二、三の事務を前もって整理していた。その時警視のジャヴェルが何か申し上げたいことがあってきた旨が取りつがれた。その名前をきいてマドレーヌ氏はある不快な印象を自ら禁ずることができなかった。警察署でのあの事件以来、ジャヴェルは前よりもなおいっそう彼を避けていた。そして彼はジャヴェルの姿を少しも見かけなかったのである。
「通しておくれ。」と彼は言った。
 ジャヴェルははいってきた。
 マドレーヌ氏は暖炉の近くにすわり、手にペンを持って、道路取り締まり違反の調書がのってる記録を開いて何か書き入れながら、それに目を据えていた。彼はジャヴェルがきてもそれをやめなかった。彼はあわれなファンティーヌのことを考え止めることができなかった、そして他のことに対して冷淡であるのは自然のことだった。
 ジャヴェルは自分の方に背を向けてる市長にうやうやしく礼をした。が市長は彼の方へ目を向けないで、続けて記録に書き込んでいた。
 ジャヴェルは室の中に二、三歩進んだ、そしてその静けさを破らずに無言のまま立ち止まった。
 もし一人の人相家があって、ジャヴェルの性質に親しんでおり、この文明の奴僕たる蛮人、ローマ人とスパルタ人と僧侶と下士とのおかしなこの雑種人、一の虚言をもなし得ないこの間諜《かんちょう》、この純粋|無垢《むく》な探偵《たんてい》を、長い間研究しており、更にまたマドレーヌ氏に対する彼の昔からのひそかな反感や、ファンティーヌに関する彼と市長との争いなどを知っており、そしてこの瞬間における彼をよく見たとするならば、その人相家は「何が起こったのだろう」と思ったであろう。彼の正直で清澄でまじめで誠実で謹厳で猛烈な内心を知っている者にとっては、彼が心内のある大変化を経たことを明らかに見て取り得られたであろう。ジャヴェルはいつも心にあることはすぐに顔にも現わした。彼は荒々しい気質の人のようにすぐに説を変えた。が、この時ほど彼の顔付きは不思議な意外な様をしていることはかつてなかった。室にはいって来るや、何らの怨恨《えんこん》も憤りも軽侮も含まない目付きで、マドレーヌ氏の前に身をかがめ、それから市長の肱掛椅子《ひじかけいす》の後ろ数歩の所に立ち止まったのだった。そして今彼は規律正しい態度をし、かつて柔和を知らない常に堅忍な人のような素朴な冷ややかな剛直さをもって、そこに直立していたのである。彼は一言も発せず、何らの身振りもせず、真の卑下と平静な忍従とのうちに、市長がふり向くのを待っていた。そして落ち着いたまじめな様子をして、手に帽子を持ち、目を伏せ、隊長の前に出た兵士と裁判官の前に出た罪人との中間な表情を浮かべていた。彼が持っていたと思われるあらゆる感情や記憶は消え失せてしまっていた。その花崗石のごとき単純でしかも測り難い顔の上には、ただ憂鬱《ゆううつ》な悲しみのほかは何も見られなかった。彼のすべての様子は、屈従と決意と一種の雄々しい銷沈《しょうちん》とを示していた。
 ついに市長はペンを擱《お》いて、半ばふり返った。
「さて、何ですか、どうかしたのですか、ジャヴェル君。」
 ジャヴェルは何か考え込んでいるかのようにちょっと黙っていたが、やがてなお率直さを失わない悲しげな荘重さをもって声を立てて言った。
「はい、市長殿、有罪な行為がなされたのです。」
「どういうことです?」
「下級の一役人が重大な仕方である行政官に敬意を失しました。私は自分の義務としてその事実を報告に参ったのです。」
「その役人というのはいったいだれです。」とマドレーヌ氏は尋ねた。
「私です。」とジェヴェルは言った。
「君ですって。」
「私です。」
「そしてその役人に不満なはずの行政官というのはだれです。」
「市長殿、あなたです。」
 マドレーヌ氏は椅子の上に身を起こした。ジャヴェルはなお目を伏せながらまじめに続けた。
「市長殿、私の免職を当局に申し立てられんことをお願いに上がったのです。」
 マドレーヌ氏は驚いて何か言おうとした。ジャヴェルはそれをさえぎった。
「あなたは私の方から辞職すべきだとおっしゃるでし
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