レ・ミゼラブル
LES MISERABLES
第一部 ファンティーヌ
ビクトル・ユーゴー Victor Hugo
豊島与志雄訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)噂《うわさ》や

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)脱俗|遁世《とんせい》の考えを

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》で
−−

   第一部 ファンティーヌ
[#改丁]

   第一編 正しき人


     一 ミリエル氏

 一八一五年に、シャール・フランソア・ビヤンヴニュ・ミリエル氏はディーニュの司教であった。七十五歳ばかりの老人で、一八〇六年以来、ディーニュの司教職についていたのである。
 彼がその教区に到着したころ、彼についてなされた種々な噂《うわさ》や評判をここにしるすことは、物語の根本に何らの関係もないものではあるが、すべてにおいて正確を期するという点だけででも、おそらく無用のことではあるまい。嘘《うそ》にせよ真《まこと》にせよ、人の身の上について言わるることは、その人の生涯《しょうがい》のうちに、特にその運命のうちに、往々実際の行為と同じくらいに重要な位置を占むるものである。ミリエル氏はエークスの高等法院の評議員のむすこであって、顕要な法官の家柄だった。伝えらるるところによれば、彼の父は、彼に地位を継がせようとして、当時、法院関係の家庭にかなり広く行なわれていた習慣に従い、彼をごく早く十八歳か二十歳かの時に結婚さしたそうであるが、彼はその結婚にもかかわらず、多くの噂の種をまいたとかいうことである。背《せい》は少し低い方であったが、品位と優美と才気とを備えたりっぱな男であった。その生涯の前半は社交と情事とのうちに費やされた。そのうちに革命となり、種々の事件が相次いで起こり、法院関係の家柄は皆多く虐殺され、放逐され、狩り立てられ、分散してしまった。シャール・ミリエル氏は革命の初めからイタリーに亡命した。彼の妻は、そこで、長くわずらっていた肺病のために死んだ。彼らには子がなかった。それからミリエル氏の運命にはいかなることが起こったか。フランスの旧社会の瓦解《がかい》、彼の一家の零落、一七九三年の悲惨な光景、恐怖の念を深めて遠くからながむる亡命者らにとっては、おそらくいっそう恐ろしかったろうその光景、それらが彼の心のうちに脱俗|遁世《とんせい》の考えを起こさしたのであろうか。世の変動によってその一身や財産に打撃を被っても、あえて動じないような人をも、時としてその心を撃って顛動《てんどう》せしむるあの神秘な恐るべき打撃が、当時彼がふけっていた娯楽や逸楽のさなかに突然落ちかかったのであろうか。それらのことは、だれも言うことはできなかった。ただ知られていたことは、イタリーから帰ってきた時、彼は牧師になっていたということだけであった。
 一八〇四年には、ミリエル氏はブリニョルの主任司祭であった。既に年老いていて、まったく隠遁の生活をしていた。
 皇帝の戴冠式《たいかんしき》のあったころ、何であったかもうだれもよく覚えていないが、あるちょっとした職務上の事件のために、彼はパリーに出かけねばならなかった。多くの有力な人々のうちでも枢機官フェーシュ氏の所へ彼は行って、自分の教区民のために助力を願った。ある日、皇帝が叔父《おじ》のフェーシュ氏を訪れてきた時、このりっぱな司祭は控室に待たされていて、ちょうど皇帝がそこを通るのに出会った。皇帝はこの老人が自分を物珍しげにながめているのを見て、振り向いてそして突然言った。
「わたしをながめているこの老人は、どういう者か。」
「陛下、」とミリエル氏は言った、「陛下は一人の老人を見ていられます。そして私は一人の偉人をながめております。私どもはどちらも自分のためになるわけでございます。」
 皇帝はすぐその晩、枢機官に司祭の名前を尋ねた。そして間もなくミリエル氏は、自分がディーニュの司教に任ぜられたのを知って驚いたのであった。
 ミリエル氏の前半生について伝えられた話のうち、結局どれだけが真実であったろうか、それはだれにもわからなかった。革命以前にミリエル氏の一家を知っていた家《うち》はあまりなかったのである。
 ミリエル氏は、小さな町に新しくやってきた人がいつも受ける運命に出会わなければならなかった。そこには陰口をきく者はきわめて多く、考える者は非常に少ないのが常である。彼は司教でありながら、また司教であったがゆえに、それを甘んじて受けなければならなかった。しかし結局、彼に関係ある種々の評判は、おそらく単なる評判というに過ぎなかったであろう、風説であり言葉であり話であって、南方の力ある言葉でいわゆるむだ口[#「むだ口」に傍点]というのにすぎなかったであろう。
 しかし、それはそれとして、九年間ディーニュに住んで司教職にあった今では、当初小都会や小人どもの話題となるそれらの噂話は、全く忘られてしまっていた。だれもあえてそれを語ろうとする者もなく、あえてそれを思い出してみようとする者もなかった。
 ミリエル氏は老嬢であるバティスティーヌ嬢とともにディーニュにきたのであった。彼女は彼より十歳年下の妹だった。
 彼らの召し使いとしては、バティスティーヌ嬢と同年配のマグロアールという婢《ひ》が一人いたきりだった。彼女は司祭様の召し使い[#「司祭様の召し使い」に傍点]であったが、今では、老嬢の侍女であり司教閣下の家事取り締まりであるという二重の肩書きを持つようになっていた。
 バティスティーヌ嬢はひょろ長い、色の青いやせた穏和な女であった。「尊敬すべき」という言葉が示す理想そのままの女であった。というのは、およそ女が尊重さるべきという趣を持つためには、まず母であることが必要であるように思われる。バティスティーヌ嬢はかつて美しかったことがなかった。引き続いて神様の務めをしてきたというに過ぎない彼女の一生は、一種の白さと輝きとを彼女に与えたのだった。そして年をとるにつれて、温良の美しさともいうべきものを彼女は得た。若いころのやせ形は、成熟すると透明の趣に変わった。そしてその身体《からだ》を透かして心の中の天使が見えるようであった。処女であるというよりもなおいっそう、霊であった。その身体は影でできているように見えた。男女の性を持つに足りないほどの肉体であって、光を包んだわずかな物質にすぎなかった。いつもうつむいてる大きい目、霊が地上にとどまってるというだけのものだった。
 マグロアールは、背の低い色の白い脂肪質《しぼうしつ》の肥満した、忙しそうにしている年寄りであって、第一非常に働いているために、第二に喘息《ぜんそく》のために、いつも息を切らしていた。
 ミリエル氏はその到着の日に、司教を旅団長のすぐ次位に位させた勅令に相当する名誉の儀式をもって、その司教邸に据えられた。市長と市会議長とが第一に彼を訪問し、彼の方ではまた、第一に将軍と知事とを訪問した。
 就任の式が終わって、市はその司教の働きを待った。

     二 ミリエル氏ビヤンヴニュ閣下となる

 ディーニュの司教邸は、施療院の隣にあった。
 司教邸は広大な美しい家で、シモールの修道院長で一七一二年にディーニュの司教となったパリー大学神学博士アンリ・ピュジェー閣下によって、十八世紀のはじめに建てられた石造のものだった。全く堂々たる住宅であった。すべてに壮大な面影があった、司教の居間、客間、奥の間、古いフロレンス式どおりに迫持揃《せりもちぞろ》いのある歩廊を持った広い中庭、りっぱな樹木が植えてある後園など。第一階にあって後園に面した、長いみごとな回廊をなしている食堂には、アンリ・ピュジェー閣下が一七一四年七月二十九日に、アンブロンの大司教公爵シャール・ブリューラル・ド・ジャンリー閣下、カピュサン派の牧師でグラスの司教アントアヌ・ド・メグリニー閣下、マルタ騎士団の騎士でサン・トノレ・ド・レランの修道院長フィリップ・ド・ヴァンドーム閣下、ヴァンスの司教男爵フランソア・ド・ベルトン・ド・グリヨン閣下、グランデーヴの司教領主シェザール・ド・サブラン・ド・フォルカキエ閣下、およびスネーの司教領主にしてオラトアール派の牧師で王の常任説教師なるジャン・ソーナン閣下を、正式の食堂に招待したことがあった。これら主客七人の高貴な人々の肖像が、その室を飾っていた。そしてその一七一四年七月二十九日[#「一七一四年七月二十九日」に傍点]の記念すべき日付は、真っ白な大理石の板に金文字で彫ってあった。
 施療院は、狭い低い二階建ての建物で、小さな庭が一つあるきりだった。
 到着して三日後に、司教は施療院を見舞った。それがすむと、こんどは院長にも自分の家にきてくれるように願ったのであった。
「院長さん、」と彼は言った、「今、幾人病人がいますか。」
「二十六人おります。」
「私の数えたところも、さようでした。」と司教は言った。
「寝台があまり接近しすぎています。」と院長は言った。
「私もそう認めました。」
「室がみな小さすぎます、そして空気がよく通いません。」
「私にもそう見えました。」
「それにまた、日がさしましても、回復しかけた患者たちが散歩するには、庭が小さすぎます。」
「私もそう思いました。」
「今年はチフスがありましたし、二年前には粟粒発疹熱《つぶはしか》がありましたし、そんな流行病のおりには、時とすると百人もの患者がありますが、実はどうしてよろしいかわからないのです。」
「私もそういう時のことを考えました。」
「どうも仕方がありません。あきらめるよりほかはありません。」と院長は言った。
 この会話は、司教邸の一階の回廊食堂でなされたのであった。
 司教はちょっと黙っていたが、それから突然、院長の方をふり向いた。
「院長さん、」と彼は言った、「この室だけでどれだけ寝台が置けましょうか。」
「閣下のこの食堂にですか。」と院長は呆気《あっけ》にとられて叫んだ。
 司教は室を見回して、目で尺度をはかり、計算をしているらしかった。
「二十は置けるだろう!」と彼はひとりごとのように言って、それから声を高めた。「院長さん、少し申し上げたいことがあります。明らかにまちがったことがあるのです。あなたの方は、五つか六つの小さな室に二十六人はいっています。私の方は三人きりですが、六十人くらいははいれる家にいます。それがまちがっているのです。あなたが私の家に住み、私があなたの家に住みましょう。私にあなたの家をあけていただきましょう。あなたの家はここです。」
 その翌日、二十六人の貧しい人々は司教邸に移され、司教は施療院の方へ移った。
 ミリエル氏には少しも財産がなかった。彼の一家は革命のために零落したのだった。が、妹の方は五百フランの終身年金を得ていて、僧家にあっては、それで自分の費用にはじゅうぶんだった。ミリエル氏は司教として国家から一万五千フランの手当を受けていた。施療院の方へ移り住んだその日に、彼は次のようにその金を使おうと断然決心した。ここに彼自らしたためた覚え書きを写すとしよう。

[#ここから4字下げ]
  わが家の支出規定覚え書き
神学予備校のため…………………………………千五百リーヴル
伝道会……………………………………………………百リーヴル
モンディディエの聖ラザール会員のため……………百リーヴル
パリー外国伝道学校…………………………………二百リーヴル
サン・テスプリ修道会……………………………百五十リーヴル
聖地宗教会館……………………………………………百リーヴル
母の慈善会……………………………………………三百リーヴル
なおアールの同会のため……………………………五十リーヴル
監獄改善事業…………………………………………四百リーヴル
囚徒慰問および救済事業……………………………五百リーヴル

次へ
全64ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング