、その杖の一端を握りしめ、ジャン・ヴァルジャンから目を離さずに扉《とびら》の框《かまち》を背にして立っていた。
ジャン・ヴァルジャンは寝台の枕木の頭に肱《ひじ》をつき、額を掌《てのひら》に当て、そこに横たわって動かないファンティーヌを見つめはじめた。彼はそのまま気を取られて無言でいた。明らかにこの世のことは何にも思っていなかったのであろう。彼の顔にも態度にも、もはや言い知れぬ憐憫《れんびん》の情しか見えなかった。そしてその瞑想《めいそう》をしばらく続けた後、彼はファンティーヌの方に身をかがめて、低い声で何かささやいた。
彼は彼女に何と言ったのであろうか? この世から捨てられたその男は死んだその女に何を言い得たであろうか。その言葉は何であったろうか。地上の何人《なんぴと》にもそれは聞こえなかった。死んだ彼女にはそれが聞こえたであろうか。おそらくは崇高なる現実となる痛切なる幻影が世にはある。少しの疑いもはさみ得ないことには、その光景の唯一の目撃者であったサンプリス修道女がしばしば語ったところによれば、ジャン・ヴァルジャンがファンティーヌの耳に何かささやいた時、墳墓の驚きに満ちたるその青
前へ
次へ
全639ページ中626ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング