と不快の念を覚ゆることがある。
民約議会員は息をあえぎはじめた。臨終の呼吸に交じり来る苦痛の息切れは、彼の言葉を妨げた。それでも彼はなお、目のうちにはまったく明瞭《めいりょう》な精神を宿していた。彼は続けて言った。
「なおかれこれ数言費やしてみましょう。全体としては広大なる人類的肯定である革命の外にあって、九三年は不幸にも一つの抗弁です。あなたはそれが苛酷であると言わるる。しかしすべて王政時代はどうですか。カリエは盗賊であるとするも、しかしあなたはモントルヴェルにいかなる名前を与えるのですか。フーキエ・タンヴィールは乞食《こじき》であるとするも、しかしラモアニョン・バーヴィルについてあなたはいかなる意見をいだいているのですか。マイヤールは恐るべきであるとするも、しかしソー・タヴァンヌはいかがです。老デュシェーヌは獰猛《どうもう》であるとするも、しかし老ルテリエに対してあなたはいかなる形容をするのですか。ジュールダン・クープ・テートは怪物であるとするも、しかしルーヴォア侯ほどではなかった。私は大公妃にして女王であったマリー・アントアネットをあわれに思う。しかし私はまた、ルイ大王の時に、小児《こども》に乳を与える所を捕えられて、腰まで裸にされ、杭《くい》に縛られ、小児は彼方《かなた》へ引き離された、あのユーグノー派の気の毒な婦人をも、同様にあわれむのです。乳房《ちぶさ》は乳に満ち心は苦しみに満ちていた。飢えたまっさおな小児はその乳房を見ながら、もだえ泣き叫んだ。刑執行人は母たり乳母《うば》たるその婦人に向かって、異端の信仰を去れ、と言いながら、小児の死か良心の死かいずれかを選ばせようとした。一個の母親に適用されたタンタルス([#ここから割り注]訳者注 永久の飢渇に処刑せられたるギリシャ神話中の人物[#ここで割り注終わり])の処刑を、あなたは何と言われますか。よろしいですか、フランス大革命はその正当の理由を有しているのです。その憤怒は未来によって許さるるでしょう。その結果はよりよき世界です。その最も恐るべき打撃からは人類に対する愛撫《あいぶ》が出て来るのです。簡単に言ってのけましょう。私の方が有利だから止《よ》しましょう。それに私はもう死ぬのです。」
そして司教を見るのをやめて民約議会員は、次の静かな数語のうちにその思想を言ってのけた。
「そうだ、進歩の激烈なるを革命と呼ぶ。革命が過ぎ去る時に人は認むる、人類は酷遇されたと、しかも人類は進歩をしたと。」
民約議会員は、司教の内心の防御障壁をことごとくそれからそれへと打ち破ったことを疑わなかった。しかれどもなおそこには一つ残っていた。そしてビヤンヴニュ閣下の最後の抵抗手段たるその障壁から、次の言葉が出た。そのうちにはほとんど初めのとおりの辛辣《しんらつ》さがまた現われていた。
「進歩なるものは神を信じてるはずです。善は不信の僕《しもべ》を持つわけはありません。無神論者である人は、人類の悪い指導者です。」
人民の代表者たる老人は答えをしなかった。彼は身を震わした。彼は空をながめた、そしてしだいに目に涙がわき出てきた。涙はまぶたにあふれて、蒼白《そうはく》のほほに伝わって流れた。彼は空の深みに目を定めたまま、自分自らにささやくがように声低くほとんどどもりながら言った。
「おお汝《なんじ》! おお理想! 汝のみひとり存在する!」
司教は名状すべからざる一種の衝動を感じた。
ちょっと沈黙の後、老人は空の方に指をあげてそして言った。
「無限は存在する。無限は彼処《かしこ》にある。もしも無限にその自我がないとするならば、この我なる自我がその範囲となるだろう。無限は無限でなくなるだろう。言い換えれば無限は存在しなくなるだろう。しかるに無限は存在する。ゆえにそれは一つの自我を持つ。この無限の自我、それが神である。」
瀕死《ひんし》の彼は、あたかも何者かを認めたがように、恍惚《こうこつ》として身を震わしながら声高に、それらの最後の言葉を発した。言い終えた時に、彼の目は閉じた。努力のために疲憊《ひはい》しつくしたのであった。残された数時間を一瞬間のうちに彼は明らかに生きたのだった。彼の今言ったことが、彼を死のうちにある彼と接近せしめたのだった。最期の時が近づいていた。
司教はそれを了解した。時機は切迫していた。彼がそこへきたのは、あたかも臨終に迎えられた牧師のようであった。彼は極度の冷淡よりしだいに極度の感動に移されていた。彼はその閉じた目をながめた。彼は年老いしわ寄ったその冷たい手を取った。そして臨終の人の上に身をかがめた。
「今は神の時間です。もしわれわれが互いに出会ったことが無益であるならば、それは遺憾なことだとは思われませぬか。」
民約議会員は目を再び開いた。暗影の漂った沈重さが
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