ャヴェルに言った。
「あなたはこの女を殺した。」
「早く片づけてしまおう!」とジャヴェルは憤激して叫んだ。「俺は理屈を聞きにここにきたんじゃない。そんなことははぶいたがいい。護衛の者は下にいる。すぐに行くか、もしくは手錠かだぞ!」
 室の片すみに古い鉄の寝台があった。かなりひどくなっていたが、修道女たちが病人を看護しながら寝る時のに使われていた。ジャン・ヴァルジャンはその寝台の所へ歩み寄り、いたんでるその枕木をまたたくまにはずした。それくらいのことは彼のような腕力にはいとたやすいことだった。彼はその枕木の太い鉄棒をしっかとつかんで、ジャヴェルを見つめた。
 ジャヴェルは扉《とびら》の方へ退いた。
 鉄棒を手にしたジャン・ヴァルジャンは、おもむろにファンティーヌの寝台の方へ歩いて行った。そこまで行くと彼はふり返って、ようやく聞き取れるくらいの声でジャヴェルに言った。
「今しばらく私の邪魔をしてもらいますまい。」
 確かなことには、ジャヴェルは震えていた。
 彼は護衛の者を呼びに行こうと思ったが、その間を利用してジャン・ヴァルジャンは逃走するかも知れなかった。それで彼はそのままそこに残って、その杖の一端を握りしめ、ジャン・ヴァルジャンから目を離さずに扉《とびら》の框《かまち》を背にして立っていた。
 ジャン・ヴァルジャンは寝台の枕木の頭に肱《ひじ》をつき、額を掌《てのひら》に当て、そこに横たわって動かないファンティーヌを見つめはじめた。彼はそのまま気を取られて無言でいた。明らかにこの世のことは何にも思っていなかったのであろう。彼の顔にも態度にも、もはや言い知れぬ憐憫《れんびん》の情しか見えなかった。そしてその瞑想《めいそう》をしばらく続けた後、彼はファンティーヌの方に身をかがめて、低い声で何かささやいた。
 彼は彼女に何と言ったのであろうか? この世から捨てられたその男は死んだその女に何を言い得たであろうか。その言葉は何であったろうか。地上の何人《なんぴと》にもそれは聞こえなかった。死んだ彼女にはそれが聞こえたであろうか。おそらくは崇高なる現実となる痛切なる幻影が世にはある。少しの疑いもはさみ得ないことには、その光景の唯一の目撃者であったサンプリス修道女がしばしば語ったところによれば、ジャン・ヴァルジャンがファンティーヌの耳に何かささやいた時、墳墓の驚きに満ちたるその青ざめた脣《くちびる》の上と茫然《ぼうぜん》たる瞳のうちとに、言葉に尽し難い微笑の上ってきたのを、彼女ははっきり見たのであった。
 ジャン・ヴァルジャンはその両手にファンティーヌの頭を取り、母親が自分の子供にするようにそれを枕の上にのせ、それからシャツのひもを結んでやり、帽子の下に髪の毛をなでつけてやった。それがすんで、彼はその目を閉ざしてやった。
 ファンティーヌの顔はその時、異様に明るくなったように見えた。
 死、それは大なる光耀《こうよう》への入り口である。
 ファンティーヌの手は寝台の外にたれていた。ジャン・ヴァルジャンはその手の前にひざまずいて、それを静かに持ち上げ、それに脣《くちびる》をつけた。
 それから彼は立ち上がった、そしてジャヴェルの方へ向いた。
「さあ、これから、」と彼は言った、「どうにでもしてもらいましょう。」

     五 ふさわしき墳墓

 ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンを市の監獄に投じた。
 マドレーヌ氏の逮捕はモントルイュ・スュール・メールに、一つの感動を、あるいはむしろ非常な動揺を起こした。まことに悲しむべきことではあるが、あの男は徒刑囚であった[#「あの男は徒刑囚であった」に傍点]というそれだけの言葉でほとんどすべての人は彼を捨てて顧みなかったことを、われわれは隠すわけにはゆかない。わずか二時間足らずのうちに、彼がなしたすべての善行は忘れられてしまった、そして彼はもはや「一人の徒刑囚」に過ぎなくなった。ただし、アラスのできごとの詳細はまだ知られていなかったことを言っておかなければならない。終日町の方々で次のような会話がかわされた。
「君は知らないのか、あれは放免囚徒だったとさ。――だれが?――市長だ。――なにマドレーヌ氏が?――そうだ。――本当か。――彼はマドレーヌというのではなくて、何でもベジャンとかボジャンとかブージャンとかいう恐ろしい名前だそうだ。――へーえ!――彼は捕《つかま》ったのだ。――捕った!――護送するまで市の監獄に入れられてるんだ。――護送するって! これから護送するって! どこへ連れて行くんだろう。――昔大道で強盗をやったとかで重罪裁判に回されるそうだ。――なるほど、僕もそんな奴《やつ》だろうと思っていた。あまり親切で、あまり申し分がなく、あまり物がわかりすぎた。勲章は断わるし、餓鬼どもに会えばだれにでも金を
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