マドレーヌ氏はいつも三時に見舞に来るのだった。正確は一つの親切である。彼はいつも正確だった。
 二時半ごろにファンティーヌは気をもみ初めた。二十分間の間に、彼女は十回以上もサンプリス修道女に尋ねた。「もう何時でございましょう?」
 三時が鳴った。ファンティーヌはいつもなら床の中で寝返りもできないくらいだったのに、三つの時計が鳴ると上半身で起き上がった。彼女はその骨立った黄色い両手を痙攣的《けいれんてき》にしかと組み合わした。そして何か重いものを持ち上げようとするような深いため息が一つ彼女の胸からもれるのを、サンプリス修道女は聞いた。それからファンティーヌは振り向いて、扉《とびら》の方をながめた。
 だれもはいってこなかった。扉は開かなかった。
 彼女は十五分ばかりもそのままで、扉に目を据え、息をつめたようにじっと動かないでいた。サンプリス修道女も口をききかねた。教会の時計は三時十五分を報じた。ファンティーヌはまた枕の上に身を落とした。
 彼女は何とも言わなかった、そしてまた敷布に折り目をつけ初めた。
 三十分たち、次いで一時間たった。だれもやってこなかった。大時計が打つたびに、ファンティーヌは起き上がって扉の方をながめた。そしてまた倒れた。
 その心持ちは傍《はた》からよく察せられた。しかし彼女はだれの名も言わず、苦情も言わず、だれをも責めなかった。ただ痛ましげに咳《せき》をした。何か暗黒なものが彼女の上にかぶさってくるようだった。彼女はまっさおになり、脣《くちびる》は青くなっていた。時々は微笑《ほほえ》みをもらした。
 五時が鳴った。その時サンプリス修道女は、彼女が低い声で静かに言うのを聞いた。「もう私は明日|逝《い》ってしまうのに、今日きて下さらないのはまちがってるわ。」
 サンプリス修道女の方でも、マドレーヌ氏の遅いのに驚いていた。
 その間にも、ファンティーヌは寝床から空をながめていた。彼女は何かを思い出そうと努めてるらしかった。そして突然、息のような弱い声で歌い出した。サンプリス修道女はそれに耳を傾けた。ファンティーヌが歌ったのは次のようなものだった。

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美しいものを買いましょう
市外の通りを歩きつつ。
野菊は青く、薔薇《ばら》はまっかに、
野菊は青く、ほんにかわいい私の児。

昨日私の炉辺にいらせられた
刺繍《ししゅう》のマントの聖母マリア様、
「いつかお前の願った小さな児、
それ私のヴェールの中に、」との御仰せ。
「町に行って布《きれ》求め、
指貫《ゆびぬき》と糸とを買っとくれ。」

美しいものを買いましょう
市外の通りを歩きつつ。

聖母様、リボンで飾った揺籃《ゆりかご》を
私は炉のもとに置きました。
神様の一番きれいな星よりも、
いただいた子供がかわいうございます。
「奥様この布《きれ》で何をこしらえましょう?」
「坊やに着物《おべべ》をこしらえておくれ。」

野菊は青く、薔薇《ばら》はまっかに、
野菊は青く、ほんにかわいい私の児。

「この布《きれ》洗っておくれ。」「どこで洗いましょう?」
「川の中でよ。痛めず汚《よご》さないでね、
美しい裾着《すそぎ》と下着をこしらえておくれ。
私はそれに刺繍《ししゅう》の花をいっぱいつけましょう。」
「赤ちゃんが見えませぬ。奥様何にいたしましょう?」
「それなら、私を葬る経帷子《きょうかたびら》にしておくれ。」

美しいものを買いましょう
市外の通りを歩きつつ。
野菊は青く、薔薇《ばら》はまっかに、
野菊は青く、ほんにかわいい私の児。
[#ここで字下げ終わり]

 それは古い子守歌だった。昔ファンティーヌはそれを歌って小さなコゼットを寝かしつけた。けれど子供に別れて五年この方、一度も頭に浮かばなかったのである。今それを彼女は、修道女をも泣かせるほどの悲しい声とやさしい調子とで歌った。厳格なことにのみなれていたサンプリス修道女も、しだいに涙が目に浮かんでくるのを感じた。
 大時計は六時を報じた。ファンティーヌはそれを聞かなかったようだった。彼女はもう周囲のことには何にも注意を向けていないらしかった。
 サンプリス修道女は雑仕婦をやって、市長は帰ってこられたか、そしてすぐに病舎にこられるかどうかを、工場の門番の婆さんの所に尋ねさした。雑仕婦は二、三分して帰ってきた。
 ファンティーヌはやはり身動きもせず、何か自分の考えにふけってるらしかった。
 雑仕婦は低い声でサンプリス修道女に語った。市長はこの寒さに朝六時前に、白い馬に引かせた小馬車で出かけられた、一人の御者も連れないで。どちらの方へ行かれたかだれも知らない。アラスへ行く道の方へ曲がられたのを見たという者もあり、パリーへ行く道で出会ったという者もある。出かけられる時もいつものとおりもの柔らかだった
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