。時々彼はそれを感じて、身を震わした。
 彼はあたかも深淵《しんえん》に身を投ずるがごとく暗夜のうちにつき進んだ。何かが彼を押し進め、何かが彼を引っ張っていた。彼のうちに起こってることは、だれもそれを語り得ないであろう。しかしやがてだれにもわかることである。生涯中少なくも一度はこの不可解な暗い洞窟《どうくつ》にはいらない者は、おそらくないであろう。
 要するに彼は、何も決心せず、何も決定せず、何も確定せず、何もなさなかったのだった。彼の本心の働きには何も決定的なものはなかったのである。彼は初めより一歩も出てはいなかった。
 何ゆえに彼はアラスへ行こうとしたのか?
 彼はスコーフレールの馬車を借りながら自ら言ったことをまた繰り返していた。「どんな結果をきたそうと、その事件を自らの目で見、自ら判断するに、不都合はあるまい。――いやそれはかえって用心深いやり方だ。どんなことになるか知らなければいけないのだ。――自分で観察し探査しなければ何も決定することはできないものだ。――遠くからながめると何事も大袈裟《おおげさ》に見えるものだ。ともかくも、どんな賤《いや》しい奴《やつ》かそのシャンマティユーを見たならば、自分の代わりにその男が徒刑場にやられても、自分の心はおそらくそう痛みはしないだろう。――なるほどそこにはジャヴェルと、自分を知ってる古い囚徒のブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユがいるだろう。しかし確かに彼らは自分を看破《みやぶ》ることはできまい。――ああ何という下らないことを考えてるんだ!――ジャヴェルの方はもう大丈夫だ。――それにあらゆる推測と仮定とはそのシャンマティユーの上に立てられている。そして推測と仮定ほど頑固《がんこ》なものはない。――でそこへ行っても何らの危険もないわけだ。」
「もちろんそれは喜ばしいことではない。しかし自分はすぐにそれから脱することができよう。――結局、自分の運命はいかに悪かろうと、自分はそれを自分の掌中《しょうちゅう》に握っている。――自分は今自ら運命の主人公である。」
 彼はそういう考えに固執していた。
 うち明けて言えば、心の底ではアラスへ行かない方を彼は望んだであろう。
 けれども、彼はやはりそこへ行こうとしたのである。
 考えにふけりながら、彼は馬に鞭《むち》をあてた。馬は一時間二里半の速度で正確によくかけていった。
 馬車が進むに従って、彼は自分のうちにある物が後退《あとしざ》りしているのを感じた。
 明方、彼は平野に出ていた。モントルイュ・スュール・メールの町は後方はるかになっていた。彼は白みゆく地平線をながめた。冬の夜明けのあらゆる冷ややかな物の象《すがた》が目の前を通過するのを、目には見ないで心で見つめた。朝にも夕のごとくその幻影がある。彼はそれらを目では見なかったが、しかし彼の知らぬまにほとんど肉体を通して、樹木や丘陵のその黒い映像は、彼の激越な魂の状態に何か陰鬱《いんうつ》な悲痛なものを加えさした。
 所々に往来の傍《かたわら》に立っている一軒家の前を通るごとに、彼は自ら言った。「あの中に安らかに眠っている人もある!」
 馬の足並みや馬具の鈴や路上の車輪は、静かな単調な音を立てていた。それらのものは、心の喜ばしい時には快いものであり、心の悲しい時には陰鬱《いんうつ》なものである。
 エダンに着いた時はもうすっかり夜が明けきっていた。彼は馬に息をつかせ麦を与えるために、ある宿屋の前に馬を止めた。
 馬はスコーフレールの言ったとおり、ブーロンネー産の小さな奴で、その特質として、頭と腹とが大きく首が短く、しかも胸が開き臀《しり》が大きく、脚《あし》はやせて細く、蹄《ひづめ》[#ルビの「ひづめ」は底本では「ひずめ」]は丈夫であった。姿はよくなかったが、頑丈《がんじょう》で強健だった。二時間に五里走って、背に一滴の汗も流していなかった。
 彼は馬車からおりなかった。ところが麦を持ってきた馬丁は急に身をかがめて、左の車輪を調べた。
「これでまだ遠方までいらっしゃるかね。」とその男は言った。
 彼はまだほとんど自分の瞑想《めいそう》のうちに沈んだまま答えた。
「なぜ?」
「遠くからいらっしゃったのかね。」と馬丁はまた言った。
「五里向こうから。」
「へえー。」
「へえーってどういうわけだ。」
 馬丁はまた身をかがめて、しばらく黙ったまま車輪を見ていたが、それから身を起こして言った。
「ですがね、これで五里の道を来るこたあできたろうが、これからはどうも半里とは行けませんぜ。」
 彼は馬車から飛びおりた。
「何だって?」
「なあに、旦那《だんな》も馬もよくまあ往来の溝《みぞ》にもころげ込まねえで、五里もこられたなあ不思議だ。まあ見てごらんなさるがいい。」
 なるほど車輪はひどくいたんでいた
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