のれの第一の義務は自己に対するものではないと思っているらしかった。
 しかしながら、こんどのようなことはいまだかつて彼に起こったことがなかったのである。われわれがここにその苦悩を述べつつあるこの不幸な人を支配していた二つの考えが、かくも激しく相争ったことはかつてなかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉において、彼は早くも漠然《ばくぜん》としかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然《あぜん》としておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然《ぼうぜん》としてしまったかのようだった。そしてその呆然《ぼうぜん》たるうちに、動乱に先立つ一種の戦慄《せんりつ》を感じた。暴風雨の前の樫《かし》の木のごとく、襲撃の前の兵士のごとく、彼は身をかがめた。迅雷《じんらい》と電光とのみなぎった黒影が頭上をおおうのを感じた。ジャヴェルの言葉を聞きながら彼には、そこにかけつけ、自ら名乗っていで、シャンマティユーを牢《ろう》から出して自らそこにはいろうという考えが、第一に浮かんだ。それは肉体を生きながら刻むほどの苦しいたえ難いことであった。が次にそれは過ぎ去った。そして彼は自ら言った、「まてよ! まてよ!」彼はその最初の殊勝な考えをおさえつけ、その悲壮な行ないの前にたじろいだ。
 もとより、あの司教の神聖なる言葉をきいた後、長い間の悔悛《かいしゅん》と克己との後、みごとにはじめられた贖罪《しょくざい》の生活の最中に、かくも恐ろしき事情に直面しても少しも躊躇《ちゅうちょ》することなく、底には天国がうち開いているその深淵《しんえん》に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。しかしいかにりっぱなことであったろうとはいえ、そうはゆかなかったのである。われわれは彼の魂のうちにいかなることが遂げられつつあったかを明らかにしなければならない。そしてわれわれはその魂のうちにあったことのみをしか語ることを得ない。まず第一に彼を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼はにわかに考えをまとめ、感情をおし静め、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を捨て、戦士が楯《たて》を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。
 その一日の残りを彼はそういう状態のうちに過ごした、内心の擾乱《じょうらん》と外部の深い平静とをもって。いわゆる「大事を取る」ということをしか彼はしなかった。すべてはまだ脳裏に漠然と紛乱していた。何らのまとまった観念も認められないほどにその擾乱は激しかった。ただある大なる打撃を受けたということのほかは、彼自らも自分自身がわからなかったであろう。彼は平素のとおりファンティーヌの病床を見舞い、親切の本能からいつもより長くそこにとどまり、自分のなすべきことを考え、万一不在になる場合のために、彼女を修道女たちによく頼んでおかなければならないと思った。アラスへ行かなければなるまいとぼんやり感じた。が少しもその旅を心に決したのではなかった。実際のところ何らの疑念をも被るわけはないので、これからの裁判に列席しても何ら不都合はないとひそかに考えた。そしてあらゆる事変の準備を整えておくために、スコーフレールの馬車を約束した。
 彼はかなりよく食事もした。
 自分の室に帰って彼は考え込んだ。
 彼は自分の立場を考えて、それが異常なものであることを知った。あまりに異常だったので、ほとんど名状し難いある不安な衝動に駆られて、黙想の最中にわかに椅子《いす》から立ち上がり、戸を閉ざし閂《かんぬき》をさした。何かが更にはいってきはしないかを恐れた。何か起こるかも知れないことに対して身を護った。
 間もなく彼は燈火《あかり》を消した。それがわずらわしかったのである。
 だれかが自分を見るかも知れないと彼は思ったらしい。
 だれが? 人が?
 悲しいかな、彼が室に入れまいとしたところのものは、既にはいってきていた。彼がその目を避けようとしたところのものは、既に彼を見つめていた。彼の本心が。
 彼の本心、すなわち神が。
 けれども初めは、彼は自ら欺いていた。彼は安全と孤独とを感じた。閂をして彼はもうだれにもつかまることがないと思った。蝋燭《ろうそく》を消して彼はもうだれにも見らるることがないと思った。そこで彼はほっと安心した。両肱《りょうひじ》をテーブルの上につき、掌《てのひら》に頭をささえ、暗やみのうちで瞑想《めいそう》しはじめた。
「自分はいったいどこにいるのか。――夢を見ているのではないのか。――何を聞いたのか。――ジャヴェルに会って彼があんなことを言ったのは本当なのか。――そのシャンマティユーというのはいった
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