ないで下さい。お命にかかわります。」
「村長どの、」と司教は言った、「ちょうどそのことです。私がこの世にいるのは、自分の生命《いのち》を守るためではなくて、人々の魂を守らんがためです。」
 彼のなすに任せるよりほかはなかった。彼は案内者になろうと自ら申し出た一人の子供だけを伴なって出立つした。彼の頑固《がんこ》はその付近の人々の口に上り、そして非常に人々の心を痛めた。
 彼は妹をもマグロアールをも連れて行こうとしなかった。彼は騾馬《らば》の背に乗って山を通り、だれにも出会わず、無事に彼の「善良な友」たる羊飼いたちのもとに着いた。そこで彼は信仰を説き祭式を執り物を教え道徳を説きなどして、十五日の間留まっていた。出発の迫ってきた頃彼は正式をもって讃歌《テデオム》を歌うことにした。彼はそのことを主任司祭に話した。しかしいかにしたらいいか。司教の飾具なんか一つもない。村のみすぼらしい聖房と平紐《ひらひも》で飾られたダマ織りの古いすりきれた二三の法衣とが、使用し得らるるすべてであった。
「なに、」と司教は言った、「司祭さん、やはり会衆に讃歌《テデオム》のことを伝えておきましょう。どうにかなるでしょう。」
 人々は付近の会堂をさがし歩いた。が付近の教区のすべてのりっぱなものを集めても、大会堂の一人の合唱隊長の適宜な衣装にも足りなかった。
 この当惑の最中に、二人の見知らぬ騎馬の男が大きな一つの箱を持ってきて、司教へと言って司祭の家に置き、そのまま立ち去ってしまった。箱を開いてみると中には、金襴《きんらん》の法衣、金剛石をちりばめた司教の冠、大司教の十字架、見事な笏杖《しゃくじょう》、その他一月前にアンブロンのノートル・ダーム寺院から盗まれたすべての司教服がはいっていた。箱の中に一枚の紙があって、その上に次の語が誌《しる》してあった。「クラヴァットよりビヤンヴニュ閣下へ[#「クラヴァットよりビヤンヴニュ閣下へ」に傍点]。」
「だから、どうにかなるでしょうと私が申したのです!」と司教は言った。それから彼はほほえみながらつけ加えた。「司祭の白衣で満足する者に、神は大司教の法衣を下されます。」
「閣下、」と司祭は頭を振り立てながらほほえんでつぶやいた、「神様か――または悪魔か。」
 司教は司祭をじっとながめた、そしておごそかに言った。「神です。」
 司教がシャストラルに帰っていった時、
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