のれの第一の義務は自己に対するものではないと思っているらしかった。
しかしながら、こんどのようなことはいまだかつて彼に起こったことがなかったのである。われわれがここにその苦悩を述べつつあるこの不幸な人を支配していた二つの考えが、かくも激しく相争ったことはかつてなかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉において、彼は早くも漠然《ばくぜん》としかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然《あぜん》としておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然《ぼうぜん》としてしまったかのようだった。そしてその呆然《ぼうぜん》たるうちに、動乱に先立つ一種の戦慄《せんりつ》を感じた。暴風雨の前の樫《かし》の木のごとく、襲撃の前の兵士のごとく、彼は身をかがめた。迅雷《じんらい》と電光とのみなぎった黒影が頭上をおおうのを感じた。ジャヴェルの言葉を聞きながら彼には、そこにかけつけ、自ら名乗っていで、シャンマティユーを牢《ろう》から出して自らそこにはいろうという考えが、第一に浮かんだ。それは肉体を生きながら刻むほどの苦しいたえ難いことであった。が次にそれは過ぎ去った。そして彼は自ら言った、「まてよ! まてよ!」彼はその最初の殊勝な考えをおさえつけ、その悲壮な行ないの前にたじろいだ。
もとより、あの司教の神聖なる言葉をきいた後、長い間の悔悛《かいしゅん》と克己との後、みごとにはじめられた贖罪《しょくざい》の生活の最中に、かくも恐ろしき事情に直面しても少しも躊躇《ちゅうちょ》することなく、底には天国がうち開いているその深淵《しんえん》に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。しかしいかにりっぱなことであったろうとはいえ、そうはゆかなかったのである。われわれは彼の魂のうちにいかなることが遂げられつつあったかを明らかにしなければならない。そしてわれわれはその魂のうちにあったことのみをしか語ることを得ない。まず第一に彼を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼はにわかに考えをまとめ、感情をおし静め、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を捨て、戦士が楯《たて》を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。
その一日の残り
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