もに近々エークスで判決を下されることになっていた。
人々はその事実を語り合って、皆検事の巧妙さを讃嘆《さんたん》した。彼は嫉妬心を利用して、怒りの念によって真実を現わさせ、復讐心《ふくしゅうしん》から正義を引き出したのであると言われた。司教はそれを黙って聞いていた。そして話が終わると彼は尋ねた。
「その男と女はどこで裁判されるのですか。」
「重罪裁判所においてです。」
司教はまた言った。
「そしてその検事はどこで裁判されるのですか。」
また他の悲惨な一事件がディーニュに起こった。一人の男が殺人罪のために死刑に処せられた。その不幸な男はまったく文盲でもなくまったく無知でもなかった。市場の手品師だったこともあり、代書人だったこともある。その裁判は非常に市人の興味をひいた。死刑執行の前日に監獄の教誨師《きょうかいし》が病気になった。刑人の臨終の折りに立会うため一人の牧師が必要になった。で、主任司祭を呼びにやった。ところが主任司祭は次のように言ってそれを断わったらしい。「それは私の関するところでない。そんな仕事やそんな手品師なんか私の知るところでない。私もまた病気なんです。その上、それは私の地位じゃない。」この主任司祭の答えを聞かされて司教は言った。「司祭の言うのは道理だ[#「司祭の言うのは道理だ」に傍点]。それは彼の地位じゃない[#「それは彼の地位じゃない」に傍点]、私の地位だ[#「私の地位だ」に傍点]。」
彼は即刻監獄に行って、「手品師」の監房へやって行った。彼はその男の名前を呼んで、その手をとって話をした。彼は終日終夜その男のそばで過ごし、ほとんど寝食を忘れて、刑人の霊のために神を祈り、また自分の霊のためにその刑人を祈った。彼は最も単純な最善の真理を語ってきかせた。彼はその男の父となり兄弟となり友となった。ただ祝福するためにのみ司教であった。あるいは元気をつけてやったりあるいは慰めたりして、その男にいっさいの事を教えた。その男はまさに絶望のうちに死なんとしていたのである。死は彼にとって深淵のようだった。その悲しむべき岸辺《きしべ》に立って震えながら、恐怖のために後退《あとずさ》りしていた。彼はまったく平気でいられるほど無知ではなかった。その処刑は、その深い震動は、われわれを事物の神秘から距《へだ》てわれわれが人生と呼ぶところのあの障壁を、かしこ、ここ、彼のまわ
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