涙を流したのはそれが初めてであった。
ジャン・ヴァルジャンは司教の家から出てきた時、前に述べたとおり、これまでの考えから全く外に出ていた。彼は自分のうちに起こったところのことを自ら了解することができなかった。彼はその老人の天使のごとき行ないや優しい言葉に反抗して心を固くした。「あなたは正直な人間になることを私に約束なすった。私はあなたの魂を購《あがな》うのです。私はあなたの魂を邪悪の精神から引き出して、それを善良なる神にささげます。」そのことがたえず彼の心に返ってきた。彼はその神のごとき仁恕《じんじょ》に対抗せしむるに、吾人の心のうちにある悪の要塞《ようさい》たる傲慢をもってした。彼は漠然と感じていた、その牧師の容赦は自分に対する最も大なる襲撃であり最も恐るべき打撃であって、そのために自分はまだ揺り動かされていると。もしその寛容に抵抗することができるならば、自分のかたくなな心はついに動かすべからざるものであろう、もしそれに譲歩するならば、多くの年月の間他人の行為によって自分の心のうちに満たされ自ら喜ばしく思っていたあの憎悪の念を、捨てなければならないであろう。もうこんどは勝つか負けるかの外はない。そして戦いは、決定的な大戦は、自分自身の悪意とあの老人の仁慈との間になされているのだ。
それらのはっきりした意識を持って、彼は酔える人のように立ち去ったのであった。かくて荒々しい目付きをしながら歩いている間、ディーニュのその事件から自分に対していかなる結果が起こるであろうかは、彼ははっきり覚《さと》っていたであろうか。生涯のある瞬間において、人の精神を戒めもしくは悩ますところのあの神秘なるざわめきを、彼は聞き取っていたであろうか。ある声が次のことを彼の耳にささやいたであろうか、すなわち、彼はおのれの運命のおごそかなる瞬間を通りすぎてきたこと、もはや彼にとっては中間は存在しないこと、もし今後最善の人とならないとすれば最悪の人となるであろうということ、言わば司教よりも高きに昇るか囚人よりもなお低きに落つるか、いずれかを取らなければならない場合であること、もし善良たらんと欲せば天使とならなければならないこと、邪悪に留まらんと欲せば怪物とならなければならないこと。
ここになお、他の所で既になした疑問を繰り返さなければならない、すなわち、彼はすべてこれらのことの何かの影だにも雑
前へ
次へ
全320ページ中121ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング