人のおばさんの室へ行って借りて読んだ。ふだんは、自分のところへ来る一つの新聞さえろくに覗かない彼である。
 おばさんは眉をひそめて言った。
「たいへん御熱心ね。」
「この近くに起った事件ですよ。」
「自殺でしょうか、それとも、他殺でしょうか。島野さんはどう思いますの。」
「それが、問題です。まあ、自分で死のうと思っていたのに、気後れがして、他人から手伝って貰って死んだ、というところでしょうか。」
 彦一は平然と、多少皮肉な微笑さえ浮べて、自分の見解を披瀝するのだった。
 あの少年は、少しく低能でそして浪費癖があったという。だいたい、低脳な者は大食いだし、随って浪費癖はつきものだ。彼もまた、店の中華ソバばかりでは食い足りなくて、金を持ち出しては買い食いをする。その揚句、農村へ追いやられる話まで起って、これが大打撃となった。農村の労働と、そして粗食を、彼は知ってた筈だ。それからまだ、新聞記者が探り出さない事柄もあったに違いない。伯父夫婦も私生活については余り語りたがらなかったろう。とにかく、いろいろな原因が重って少年は死ぬ気になった。
 なにか衝撃を受けて、一時にかっと逆せ上り、やけくそに自殺する、そんなんじゃない。病人が次第に衰弱してゆくように、気力がじわじわ衰えて、いつしか死ぬ気になった。これが重大な点だ。立ち枯れする樹木と同じだ。こんな奴は、自殺しなくとも、どうせ死ぬ。
 あの一本松の沼のほとりに、彼は子供たちに交って、魚釣りなどにも出かけたに違いない。子鮒とか泥鰌とか、ろくなものはいないだろうが、大食いの懶け者には、手頃な時間つぶしだ。そして松の枝ぶりなどを眺めた。その枝ぶりが、愚かな頭の中に残っていて、首を縊ってぶら下るのに恰好だなどと、ぼんやり考えたのだろう。そして夜遅く、寝間着紐なんか懐に入れて、ふらりと出かけたんだ。自殺の決心とか覚悟とか、そんな気の利いたものがあるものか。遺書とかいうものも、きっといい加減なものだろう……。
 聞いていて、おばさんは、こんどは頬笑んだ。
「島野さん、まるで、小説家みたいね。」
 だが、そこに居合せた中年の止宿人は、不快そうな面持ちで、口を出した。
「然し、問題は、そんなことではなく、自殺か他殺かという点にあるんでしょう。」
 彦一は強い視線を相手に向けた。
「勿論、他殺でしょう。彼は死神にとっ憑かれたように、ぼんやりつっ立ってたんですよ。覚悟したわけでもなく、ただなんとなく死ぬ気でいる。いや、もう死んでたと言ってもいい。はっきりした自意識もなく、ただ、死ぬ気持ち……死気とでも言ったらいいでしょうか、その、死気に包まれて、暗がりにつっ立っていたんです。これは、不気味だとばかりは言えますまい。そんな奴に出合ったら、誰だって張り倒してやりたくなるに違いない。僕だってそうしますね。」
「それにしても、石で頭を打ち割るなんて、どういうもんですかね。」
「それは、時のはずみでしょう。」
「いくら時のはずみにしても、少し残酷すぎはしませんか。前から怨みでも含んでおればとにかく……。あなたの説によれば、犯人はただ通りがかりの者にすぎないことになりますね。」
「そうです。」
「すると、あの少年は、張り倒されたとたんに、自分から頭を石にぶっつけたとも見られますね。それも、倒れるはずみにですよ。そうすると、他殺とは言えませんね。」
「いや、僕は他殺説を執ります。」
 彦一は言い切って、不快そうに口を噤んでしまった。

 新聞の報道はだいたい二回きりで、途切れた。詳報も結論もなく、潮が引いたような工合で、空白な浜地だけが残った。その浜地に、彦一は身を曝してる感じがした。
 潮が引けば、貝は口を閉じる。彦一も口を閉じて、一本松事件に触れることを避けた。
 不用意に、ずいぶん危険な行動をしてきたものである。アパートに来るいろんな新聞をあさり読むばかりか、際どいことまで公言してしまった。単に好奇心からの推理だけだとは言えないものがあった。彼の表情を注視する者があったら、何等かの疑念を懐かないとは限らなかった。
 捜査の手は伸びてるに違いなかった。少年の身元も詳しく洗われたことだろう。死体は解剖に附されたろう。そしてあの石には、彦一の指紋が残ってた筈だ。何か些細な遺留品でもありはしなかったろうか。あの時のことを瞥見した人目はなかったであろうか。
 あの夜、彦一はしたたか酔っていた。その上にまた飲んだ。酔ってるのは珍らしくないとしても、あの夜は少しひどすぎた。そして深夜の帰宅。どこをどう歩き廻ったのか、自分でもよく覚えていなかった。アリバイは困難だろう。
 然し、彦一自身は、冷静に反省してみても、あのことに対してさほど自責の念を覚えてるわけではなかった。
 あれは、殺人ではない、と彼は感じた。また、彼は自殺幇助を罪
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