いないのである。

 某氏ある時、一冊の長篇小説を取上げ、作者が何を本当に云いたかったのか、手取り早く知るために、先ず最後の一章を読んだ。さっぱり分らない。次にその前の一章を読んだ。少し興味が持てる。次にその前の一章を読んだ。面白い。次にその前の一章を読んだ。つまらない。変だなと思って、更にその前の一章を読んだ。……かくして、某氏は遂にその小説を一章ずつ逆に読んでしまったのである。――読後の感想を聞いてみると、極めて正しいそして鋭い意見を述べた。筋の興味に甚だしく引きずられる小説や、筋の興味が殆んどない小説などは、こういう読み方をするのもよいかも知れない。
 一読してすぐ理解されるようなものはつまらない、とは多くの読書家の持論である。順に読んでも逆に読んでも、それに堪え得るような書物は、感想集や日記の類ばかりでもなかろう。
 然し、読書の真の楽しみは、書かれている文字だけを辿ることではないらしい。行と行との間をも味読するということは、そういうところから起ってくるのであろう。更に、如何なることが云われてるかが問題でなく、誰がそれを云ったかが問題だ、ということになると、つまり真意が問題になると、一層むつかしくなってくる。人間のパラドックスは、あらゆることが云われてるが何一つ理解されていないことだ、とアランは書いている。

 私は以前、老子を読んで、自分の虚無的な頽廃的な気分に甘えたことがあった。そういう風に読んだものである。最近老子を読みながら、しきりに文学のことを考え、文学上の種々の問題を考えなおした。そういう風に読んだのである。更に数年後、老子を読みなおすことがあったら、果してどういう風に読むであろうか。
 某氏ある時、夜眠れぬままに、或る難解な書物を取出し、一頁と読まないうちに眠り、そののち幾夜も、同様にして、遂にその書物を二頁とは読まずに終ったが、然しその書物は、彼を眠らせ心身を休めてくれる最も貴重なものとなったという。この話、比喩ならば面白いのである。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作ら
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング