がぐんぐん重くなってきた。
 もう止めなければいけない。いつも愛人についてのいざこざで頭を悩まし、毎日酒に酔って彷徨し、そして心身を消耗すること、もう止めなければいけない。死を思い、自殺を思うこと、もう止めなければいけない。津軽海峡のことなど、もう止めなければいけない。
 木箱はぐんぐん重くなった。
 車除けの石があって、俺はそれに腰を下した。
 周さんも立ち止った。
「どうかしましたか。」
「箱がとても重くなった。」
「では、わたし持ちましょう。」
「なあに、いいよ。」
 立ち上って、歩きだした。
「こんなこと、もうこれからは止めようよ。」
 周さんは素直に答えた。
「止めましょう。」
 暫く歩いた。
「もうこれからは、合理的に生きようよ。」
 周さんは素直に答えた。
「合理的に生きましょう。」
 それが、果して周さんとの問答だったかどうかは、分らない。
 焼跡の草原まで来て、月が出てることが分った。薄曇りの空の中天に、淡い半月があって、地上には靄の気が漂っていた。
 周さんは立ち止った。俺が千代乃さんを見かけた所だ。高い雑草の中に、周さんは数歩分け入り、そして地面を見つめた。千代乃さんの死体が横たわっていた場所だろう。その辺、草は踏み荒されていた。
 周さんは鶴嘴をふるった。だがそれには及ばなかった。地面は案外柔かく、鍬だけで充分だった。二尺ばかり下に、小石交りの固い層があり、そこを鶴嘴で突破すると、また柔かくなった。四尺ほど掘った。
 深夜のその作業は神祕じみていた。こそこそと侏儒どもが、地下の宝物を発き盗もうとしてるかのような、錯覚が起った。然し現実に、穴を掘ってるのは周伍文であり、側で見てるのはこの野島だ。なにか滑稽で忌々しく、笑殺したいのだったが、反対にふっと涙が湧いた。
「もういいだろう。」
 あたりを憚る低い声で言った。
 二人とも穴を覗き込んだ。ただ黒々としている。
 俺は思いがけない自分の声を聞いた。
「アジアの憂鬱を、埋めよう。」
 周さんは素直に答えた。
「アジアの憂鬱、埋めましょう。」
 それも、果して二人の対話だったかどうか。
 俺は木箱を周さんに渡した。周さんは木箱を穴に投げこんで、俺には全然意味も感情も通じない言葉を呟いた。それから鍬で穴を埋めた。地均しをして、草を分けて道に出た。へんに気がせいて、ゆっくりしておられない思いだった。道に出てほっとした。
 黙々として真直に歩いた。後を振り向きもしなかった。
 周さんは家の戸を引き開け、俺がはいると、戸締りをしてしまった。俺を帰らせないつもりかも知れない。
 周さんは裏の方へ行った。手足を洗う水音がして、靴ではなく、下駄をつっかけて戻って来た。
「ああ、これですっかり済んだ。」
 独語のように言って、俺に軽く頭を下げた。
 炭火を盛んにおこし、濁酒を熱くして飲み、煙草をふかして、二人で顔を見合せたが、なんだか、夢から覚めたような白々しさで、そして胸うちに淋しい空虚があった。
「張さんも、君の好きなようにするがいいと、言いました。前から考えていたことです。」
 俺が何も尋ねないのに、周さんはそんなことを言った。
「そして、どうなの。」
「さっぱり、気が済みました。」
 あんながらくたな品物ばかりで……。そしてあんなことで……。
「アジアの憂鬱……。」
 口の中で言いかけて、俺はやめた。
 不思議なのは、確かに夢ではなかったが、出かけてからこれまで、千代乃の名前が一度も出なかったことである。それで、その名前を聞いて俺はぴくりとした。
「もう千代乃は出て来ません。わたしは完全に一人きりです。」
 地中に埋めたのは、アジアの憂鬱ではなく、千代乃だったのか。
 周さんはまた饒舌りだした。
 横浜に行って、一稼ぎするつもりである。それから、中国に一度帰りたい。紹興の近在に、伯父や伯母や兄弟が、たくさんいる。横浜にはまた戻って来る。その時は、紹興の本場物の老酒を、何十年も何百年もたった豊醇な老酒を、たくさんお土産に持ってこよう。そして酒好きな人たちに、ここへよく飲みに来た人たちに、贈物にしよう。みんな良い人ばかりだ。然し、街のボスたちはいけない。自分はもう千代乃についての怨みは忘れるつもりだが、それでも、ボスはいけない。日本にはもうこれからボスは少なくなるかも知れないが、その代り、ほかの嫌な奴が出て来るだろう。そんな奴が幅を利かせるだろう。日本は不思議なところだ。善良な人々と、邪悪な人々と、両極端に別れてるようだ。千代乃の淋しい葬式に対してだって、二通りの眼があった。憎悪や軽蔑の念で見る眼と、愛情や同情の念で見てくれる眼と、二通りの眼があった。その両方の眼を、自分ははっきり見て取った。日本は、どうしてそうなんだろう。中国には、無関心か関心かの二つしかない。日本に
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