なかった。
 掛時計が十一時を打つと、周さんの同国人は立ち上り、周さんと短い言葉を交わして、帰っていった。
「さあ、あらためて飲みましょう。今晩はつきあって下さいよ。それより、先ず、話を聞いて下さい。」
 周さんはいろいろな料理を持ち出した。ありったけの御馳走と言ってもよかった。俺はもう食べられなかった。その代り、濁酒をたくさん飲んだ。周さんはよく食いよく飲んだ。酔っ払って、二人とも、話はしどろもどろだったが……。
 千代乃はほんとに死んでいた。家から逃げ出すとたんに、追っかけられて捕っては危いと思いつめたものか、かねて所持していた毒薬を呑み下し、そして駆け出したが、あの焼跡のあたり、俺が彼女に逢ったあの辺で、もう毒が廻って苦悶し、雑草の中にぶっ倒れて、息が切れたのだ、と想像される。
 早朝に発見されたその死体は、やがて解剖されたが、死因は毒薬以外には何もなかった。
「わたしが千代乃に逢ったのも、あの辺でした。」と周さんは言った。
「通りかかると、誰か、影のようにぼんやり立っている。それが千代乃です。一度は闇の中で、一度は霧の中でした。思いが残ったに違いありません。」
 千代乃は周伍文によく尽してくれた。中国の戦争、次で太平洋の戦争、そのために周は東京での生活が次第に窮屈になり、横浜の知人の家に身をひそめたが、千代乃は横浜にまでついて来てくれた。料理屋の女中をしながら、陰に陽に周を庇護し、周も彼女を頼りにした。
「言ってみれば、千代乃のスカートの中に、着物の裾の中に、わたしは頭を突っ込んで、そしてそんな時、最も安らかに息が出来るのでした。」
 戦後、東京の今の家に戻って来て、飲屋を始めてからも、千代乃は実によく働いてくれた。
 ただ、お互に、一つずつ祕密が出来た。
 当時の飲屋のことだから、ヤミの品物を扱うのは止むを得なかった。それから、第三国人は税金を免れることが出来た。それに眼をつけて、地廻りの男がよく飲みに来た。金を払う時よりも、払わない時の方が多かった。店の景気がよくなってくると、土地でも有力な尾高一家の者まで、ちょいちょい顔を見せるようになった。尾高自身も来た。その尾高の強請によって、千代乃は三万円の金を融通してやった。それが彼女の唯一の祕密だったのだ。
「女の祕密なんか、どうせばれるにきまっております。」と周さんは言った。「いや、ばれない前に、自分から白
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