「紋章」の「私」
豊島与志雄

 横光利一氏の「紋章」のなかには、「私」という言葉で現わされてる一人の文学者が出てくる。彼は、主要な人物たる雁金八郎と山下久内とに、共に交誼があり、山下敦子や綾部初子や杉生善作とは顔見知りであり、雁金の発明実験所や山下家の茶会や其他いろいろのところに、出入する。そしていろいろの事物やいろいろの説明が、彼によって述べられる。が彼は作中の事件には何の関係交渉もなくただ傍観者にすぎない。――この「私」は、誰でもよいと共にまた作者自身でもある。
 こういう「私」という人物を出して、傍観者たり説明者たり報告者たる地位におき、それを叙述の一便法とする方法は、屡々用いられることである。この場合、「私」は大抵、作中の人物や事件から独立した一人の人間で、その独自の存在がはっきりすればするほど、益々作品そのものとは無関係な地位になる、そういう種類のものなのである。例えば、谷崎潤一郎氏の「春琴抄」の中で春琴の墓を訪う「私」がそれである。
 ところで、「紋章」のなかの「私」は、そういうなまやさしいものではない。最初に述べたような「私」、または、雁金が敦子にあって我を忘れた行為をするところに立会った「私」、山下家の茶会に出席した「私」、それらのものだけを見ると、一見、普通の「私」と異らないもののようであるが、実はそうでなく、その「私」が全篇の中に浸透していて、それは単に叙述の便法として使われた傀儡ではなく、作者そのものと同一の地位にまで高まっている。この意味をはっきりさせるためになお云えば、山下家の第一回の茶会は、「私」が出席してその私の眼を通して叙述されており、後の茶会は、「私」が出席しないで普通の仕方で叙述されているが、それが両方とも同一の色調を呈している。これは、前者に於て「私」が無きに等しいものとなされてるからではなく、後者に於て、たとい「私」は姿こそ現わさないが、その影が全部に被いかぶさってるからであろう。
 如何なる客観的手法の作品でも、畢竟は作者の私によって見られ感じられ叙述されるのではあるが、また、如何なる主観的手法の作品でも、畢竟は現実的実体を描出せんとするものではあるが、然し、普通は叙述の便宜な手段として使われる「私」なるものを、作者自身の私と同じ地位にまで引上げるこうした創作態度は、作品に特殊な趣を与える。
 作品の中で普通に最も叙述困難なのは、二人もしくは数人の対坐した情景である。その間の会話のやりとりや心理の交錯を、平板にも陥らず説明にも堕せずに書き現わすことは、容易でない。「紋章」ではこの困難が特殊の方法できりぬけられている。例えば、「私」が善作と初めて逢った場面、「私」と雁金と久内と敦子とが奇怪な会食をなす場面、山下博士邸の茶会の場面など、それぞれの人物性格がしっくりと描き出され、その種々の心理の微妙なもつれが鮮かな縞目を織り出している。そして茲で注意すべきは、人物のそれぞれの言葉が、文字の上では言葉として書かれているが、地の文と同じ地位を占めていることである。言葉は一度何物にか濾過されて、言葉それ自体の生命を失い、変貌して地の文の中にとけこみ、そこで新たな生命を獲得する。そしてそこに微妙な心理交錯の縞目を織り出す。
 然るにこれが他の場面、例えば、久内と初子とが最後に(小説の中での)食事をするところや、久内が家を出て暮そうとの決心を妻の敦子にうちあけるところなどになると、濾過された言葉が死んで、地の文の中でさえ力を失ってくる。その刻々の情意の昂揚や変動に、言葉が――そして地の文までが、追っついていけないで、後方に取残される。人間の言葉は不用意に発せられるもので、殊に情意の変動時に当っては、その爆発や沈潜からじかに湧き上ってくるものであるが、そうした言葉を何かで濾過する時には、それはもう情意の動きについていけない。
「紋章」のなかで、言葉を濾過してるものは何か。それを私は前述し来った「私」だと見る。この「私」は、常に人物の跡をつけて、その刻々の心理の状態を捉えようとする。心理は刻々に動いてゆくが、捉えようとするのは、その刻々の状態である。そういう「私」によって濾過された言葉は、地の文の中にとけこんで、平常の場合には特殊の力と生命とを持つが、変動しつつある場合には、心理の動きから一歩後れるのは仕方ないことであろう。
 現実のいずれの相が真実でありいずれの相が虚偽であるか、そういうことを信じようと信じまいと、または、それの見分けがつこうとつくまいと、芸術のなかに現実を或は再現し或は飜訳し或は建立する場合、作家はただ自分の真実に頼るより外はない。そしてこの真実は、その動向の如何によって、作家に種々の態度を取らせる。「紋章」の作者は、そこで、「私」というものを得た。人間の心理に於ては、一つのものは一
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング