山が象徴であるように、心平さんにとっては、蛙も一種の象徴である。一種の、と言うのは、富士山の場合と少しく意味合が異るからだ。心平さんは先ず蛙を、あくまでも蛙として追求する。時によっては客観的にさえ追求する。追求してるうちに、しぜんと、他のものが付加されてゆく。何が付加されるか。それは、蛙自体の成長そのものだ。よそから、持って来られたものではない。蛙自体が成長して、やがて、人間と肩を並べる。蛙の本質的脱皮だ。蛙はあくまでも蛙だが、もはや昔日の蛙ではない。そこに、一つの世界が創造される。
 新たに創造されたこの世界で、蛙は独自の言語さえ持つ。この言語の日本語訳までが必要になる始末である。
 こういう蛙を歌った諸作品で、心平さんの豊潤な韻律は、鮮かなイメージを造形する。眼で読むよりは、耳で聴くがよい。心平さんが「蛙」の自作を朗読する時、聴者の脳裡には、その韻律の美しさにつれて、さまざまな形態がくっきりと浮び上ってくるし、妖しい情景が顕現されてくる。
 作者の呼吸と、作品の呼吸とが、ぴったり合っているのだ。
 そして、それらの蛙の或る者は、時に、心平さんと同じくヴァガボンドの風貌を帯びるし、時
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