ませんでした。わたくしは棺の上にかぶっている土をどけ、板を一枚外しました。と、厭なにおい、腐敗したものが発散する悪気がむうッとあがって来て、わたくしの顔を撫でました。ああ、彼女の床には菖蒲《しょうぶ》の香りが馥郁《ふくいく》と漂っていたのでありますが――。しかし、わたくしは棺を開けました。そして、火をともした提燈をそのなかにさし入れたのです。わたくしは彼女を見ました。その顔は青ざめて、ぶくぶくと膨れあがり、ぞッとするような怖ろしい形相をしておりました。また、黒いしる「#「しる」に傍点」のようなものが一条、その口から流れておりました。
しかし彼女でした、やッぱり彼女でした。わたくしは急に怖ろしくなりました。けれども、わたくしは腕を伸すと、その怖ろしい顔を自分のほうへ引き寄せようとして、彼女の髪の毛をぐッと掴んだのです。
ちょうどその時でした。わたくしは捕ってしまったのです。
わたくしは、その晩、夜一夜《よっぴて》、ちょうど愛の抱擁をした人間が女の体臭を大切にもっているように、その腐肉の悪臭、腐って行くわたくしの愛人の臭いを大切にまもっていたのでした。
わたくしが申しあげることは、これだけであります。なにとぞ、ご存分にわたくしをご処刑願います」
異様な沈黙が法廷を重くるしく圧《お》しつけているらしく、満廷、水をうったようにシーンと静まり返っている。群集はまだ何ものかを待っている容子《ようす》であった。やがて陪審員は合議をするために法廷を出て行った。
それから数分たって、陪審員が再び法廷に戻って来た時には、被告はいささかも悪びれる容子はなく、無念無想、もはや何事も考えてさえいないように見えた。
裁判長はやがて法廷の慣用語をつかって、陪審員が被告に無罪の判決を下したことを、彼に云い渡した。
しかし彼は身うごき一つしなかった。が、傍聴席からはどッと拍手が起った。
底本:「モオパッサン短篇集 初雪 他九篇」改造文庫、改造社出版
1937(昭和12)年10月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 或る→ある 或は→あるいは 謂わば→いわば (て)置→お 此→この 而して→しかして 暫く→しばらく (て)了→しま 直ぐ→すぐ 其・其の→その 唯→ただ 忽ち→たちまち 何処→どこ 筈→はず 殆んど→ほとんど 間もなく→まもなく (て)見→み 以って→もって 矢ッ張り→やッぱり 矢庭に→やにわに 稍→やや」
※底本に混在している「灯」「燈」はそのままにしました。
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付した。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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