は主婦に会いたい、是が非でも会わせろと云いだした。そして部屋に通されると食ってかかるような剣幕で、彼はこう訊いた。
「奥さん。面談したいことがあるから、起きて、寝床《とこ》から出てもらえないかね」
 すると彼女はその焦点のない、うつろな眼を将校のほうに向けた。が、うん[#「うん」に傍点]ともつん[#「つん」に傍点]とも答えなかった。
 将校はなおも語をついで云った。
「無体もたいていにしてもらいたいね。もしもあんたが自分から進んで起きんようじゃったら、吾輩のほうにも考えがある。厭でも独りで歩かせる算段をするからな」
 しかし彼女は身動きひとつしなかった。相手の姿などはてんで眼中にないかのように、例によって例のごとく、じいッとしたままだった。
 この落つき払った沈黙を、将校は、彼女が自分にたいして投げてよこした最高の侮蔑だと考えて、憤然とした。そして、こうつけ加えた。
「いいかね、明日《あす》になっても、もし寝床から降りんようじゃったら――」
 そう云い残して、彼はその部屋をでて行った。
 その翌日、老女は、途方に暮れながらも、どうかして彼女に着物を著《き》せようとした。けれども、狂女は身を※[#「あしへん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて泣きわめくばかりだった。そうこうしているうちに、もう例の将校が這入って来てしまった。老女はそこで彼の膝にとり縋《すが》って、泣かんばかりにこう云った。
「奥さんは起きるのがお厭なんです。旦那、起きるのは厭だと仰有《おっしゃ》るんです。どうぞ堪忍《かんにん》してあげて下さい。奥さんは、嘘でもなんでもございません、それはそれはお可哀相なかたなんですから――」
 少佐は腹が立って堪らないのだったが、そうかと云って、部下の兵士に命じてこの女を寝台から引き摺りおろすわけにも行きかねたので、いささか持余《もてあま》したかたち[#「かたち」に傍点]だったが、やがて、彼は出し抜けにからからと笑いだした。そして独逸《ドイツ》語で何やら命令を下した。
 するとまもなく、幾たりかの兵士が、負傷した者でも運ぶように蒲団の両端をになって、その家から出てゆくのが見えた。すこしも形の崩れぬ寝床のなかには、例の狂女が、相かわらず黙々として、いかにも静かに、自分の身にいまどんな事件が起っているのか、そんなことにはまるで無関心であるらしく、ただ寝かされたままじいッとしていた。一人の兵士が、女の衣類をいれた包を抱えて、その後からついて行った。
 例の将校はしきりに自分の両手を擦りながら、こう云っていた。
「ひとりで着物も著られない、歩くことも出けん[#「けん」に傍点]と云うなら、わし等のほうにも仕様《しよう》があるんじゃ」
 やがて、一行はイモオヴィルの森のほうを指して次第に遠ざかって行った。
 二時間ばかりたつと、兵士だけが戻って来た。
 以来、二度と再びその狂女を見かけた者はなかった。兵士たちはあの女をどうしたのだろう。どこへ連れていってしまったのだろう。それは絶えて知るよしもなかった。
 それから、夜となく昼となく雪が降りつづく季節が来て、野も、森も、氷のような粉雪の屍衣のしたに埋もれてしまった。狼が家の戸口のそばまで来て、しきりに吼えた。
 行きがた知れずになった女のことが、僕のあたまに附きまとって離れなかった。何らかの消息を得ようとして、普魯西の官憲に対していろいろ運動もしてみた。そんなことをしたために、僕はあぶなく銃殺されそうになったこともある。
 春がまた帰って来た。この町を占領していた軍隊は引上げて行った。隣の女の家は窓も戸もたて切ったままになっていた。そして路次には雑草があおあおと生い茂っていた。
 年老いた下婢は冬のうちに死んでしまった。もう誰ひとり、あの事件を気にとめる者もなかった。だが、僕にはどうしても忘れられなかった。絶えずそのことばかり考えていた。
 兵士たちは一体あの女をどうしたのだろう。森をこえて、あの女は逃げたのだろうか。誰かがどこかであの狂女をつかまえて、彼女の口からどこのどういう人間かと云うことを聴くことも出来ないので、病院に収容したままになっているのではあるまいか。しかし、僕のこうした疑惑をはらしてくれるような材料は何ひとつ無かった。とは云うものの、時がたつにつれて、僕が心のなかで彼女の身のうえを気遣う気持もだんだんと薄らいで行った。
 ところが、その年の秋のことである。山※[#「鷸」のへんとつくりが逆、92−7]が群をなして飛んで来た。痛風のほうもどうやら鎮《おさ》まっていたので、僕はぶらぶら森のほうへ鉄砲を射ちに出かけた。そして嘴《くちばし》のながい奴を、既に四五羽は射ち落していた。その時だった。僕は山※[#「鷸」のへんとつくりが逆、92−9]をまた一羽射とめたのだが、そいつが
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
モーパッサン ギ・ド の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング