かと思いました。取るものも取り敢えず、あわてて着物を著《き》ると、私は云われた場所まで駈けて行ったのです。私は駈けました、力つきて倒れてしまうほど駈けました。その子の小さな学帽が泥だらけになって地面に落ちていました。その晩は夜どおし雨が降っていたのです。私は目をあげて上を見ました。と、木の葉のなかで何か揺れているものがあります。風があったのです。かなり強く風が吹いていたのです。
 私はそれからどうしたのか、もう覚えがありません。私はきゃッと叫んでから、おそらく気を失って倒れてしまったに違いありません。それから、館へ駈けて行ったのでしょう。気がついた時には、私は自分の寝室に身を横たえていたのです。私の枕もとには母がおりました。
 私はそうした事がすべて、怖ろしい精神錯乱のうちに見た悪夢だったのだと思ったのです。そこで私は口ごもりながら云いました。
「あ、あ、あの子、ゴントランは?――」
 けれども返事はありませんでした。夢ではなくて、やッぱり事実だったのです。
 私はその少年の変り果てた姿をもう一度見ようとはしませんでした。ただ、その子の金色の頭髪のながい束を一つ貰ったのです。そ、それが――これ[#「これ」に傍点]なのです」

 そう云って、老嬢は絶望的な身振りをして、わなわな顫える手を前にさし出した。
 それから幾度も幾度も洟《はな》をかみ、眼を拭いて、こう云うのだった。
 「私は理由《わけ》は云わずに、婚約を取消してしまいました。そして、私は――私は今日までずッと、十三歳のその少年の寡婦を通してきたのです」
 彼女はそれから顔を胸のあたりまでうな垂れて、いつまでもいつまでも、淋しい涕《なみだ》をながして泣いていた。
 一同が部屋へ寝に引上げてしまうと、彼女の話でその静かな心を乱された、でッぷり肥った一人の猟人が、隣にいた男の耳に口を寄せて、低声《こごえ》でこう云った。
 「せんちめんたる[#「せんちめんたる」に傍点]もあすこまで行くと不幸ですなあ!」



底本:「モオパツサン短篇集 色ざんげ 他十篇」改造文庫、改造社出版
   1937(昭和12)年5月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「揚句→あげく 貴方・貴女→あなた 或る→ある 恐らく→おそらく 反って→かえって 拘らず→かかわらず 此処→ここ 事→こと (て)了→しま 直ぐ→すぐ 大分→だいぶ 何うした→どうした 飛んでもない→とんでもない 間もなく→まもなく (て)見→み 若し→もし 漸く→ようやく 等→ら」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付した。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2007年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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