た時には、そうした一区劃こそありはしたが、彼女は元より、隣家でその由を訊ねてみても、そうした人のいるということさえ、全く知ることができなかったのである。
 氏はまた一日を浅草にかの老人をも訊ねてみたが、幾晩氏があの思い出のベンチへ凭《よ》ろうとも、これもついにその老人を見ることはできなかった――。
 そうして二年の月日がたったのであるが、二年たった夏のはじめ、氏は思いがけなくもかの老人を、そして彼女を、しかもその両者を一つにして、歌舞伎座の華やかな特等席に見出したのである。
「おお美代子、美代子だ!」
 寺内氏は衆人の前も忘れてそう叫んだそうである。
 菊五郎の棒しばりが、すとんすとんと気持よく運ばれているうちに、ふと何かのきっかけで、特等席に眼をやった氏は、そこに、おお、かつてのあの不思議な老人と並んで、輝くように盛装した彼女が、小間使いでもあろうか、これも美しい若い女に二つばかりの子供を抱かせて、静かに舞台に見入っているのを見たのである。
 忘れることのできないその面長な顔、瞳、唇《くちびる》、しかもかの老人が、なんとモーニングらしい装束《いでたち》で、すまして、ゆったりと並んでいることよ!
 寺内氏の驚きがどんなものであったか――そもそもかの老人は何人《なんぴと》であるのか、また彼女は、恋しい美代子は何人の夫人であるのか? 今見る老人は明らかにかつての乞食ではなくまた彼女も、明らかにかつての船員の妻ではない!
「美代子――美代子!」
 氏はもう一度我を忘れて叫んだのである。そしてそのまま席を立ち上がった。
 がこの時、一方では老人と彼女は、氏の声にそれと知ったのか、あるいは特別な時間でもきたのか、ちょうどこれも席をたって帰りはじめた。
 氏はうち騒ぐ人々の間を転ぶようにぬけて、一度方向を間違えながら、懸命に玄関へと走り出た。走り出るのと、老人と彼女とが自動車に乗るとが一緒だった。あっと思う間もなく、自動車はつい宵闇へ去ってしまったのである。ちらと見た運転手の顔に、何か見覚えがあるように思ったが、その時は氏には思い出すことができなかった。
 しかし氏は、まだ絶望はしなかった。その自動車の番号を周囲の明りでハッキリと読みとっていたのだ。劇場の人々が彼等に対して丁寧《ていねい》な態度や、運転手のそれに対するうやうやしい態度は、彼等が相当に名のある老人、名のある夫人で
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