すぞ!」
 とその間は風の音で消されて、次いで急に、
「野郎!」
 と烈しい気合がはっきり聞えた。門近くの板塀のあたりに、重い物体が打つかったようである。同時に大きな暴《あれ》が窓を破るかに打ち叩いた。
 田中君が、殺《や》った、と思った瞬間に、電燈が消えて、こん度はしばらくつかなかった。
「…………」
 行って見たいと思った。しかし膝がガクガクして、内股のあたりは妙に冷え切っているのだった。
 風雨は益々暴れた。寒さがゾクゾクと背を襲った。だがそれから後は不思議に世界がしーんとして、夜は、何のさまたげもなく更けて行くかに思われる。
 十一時を過ぎたばかりであった。田中君は電燈の明るくなったのに力を得て、火鉢にうんと炭をついだ。だが部屋を出て行って見る勇気はまだ出て来なかった。
「明日にしよう、今夜は寝るのだ」
 そうきめたけれど、寝ることもその決心ほどには出来ないのであった。

 門脇の塀が一ヶ所、風のためらしく破れていた。向いの屋敷の板塀は殆ど、扇の骨を抜いたようになって倒れている。
 屋敷町の入口のことで、地面は洗われて反《かえっ》てきれいになっていたが、塀に添った溝にはまだ濁り水が川のように流れていた。
 朝日が照っているのである。
 田中君は、門から始めて、ぐるりと屋敷の周囲を調べて見た。あの雨だから、血はきれいに流れ去ったに違いない。だが死体をどうしたろう? 運んで行ったか? それにしても何か遺留品がないものか――
「何かお捜しになってるんですか」
 と向いの屋敷の年輩の主人が、何時か出て来て、呆れたように我が家の塀のさまを見ていたのが、不審に思ったのかそう声をかけた。
「いや何でもないんですが……」
 答えたものの、田中君は、相手があまりに事もなげにしているのが返って不思議に思われたので、
「実は」
 とついに昨夜の話をしたのであるが、
「そう、そう仰有《おっしゃ》れば私もたしかに聞きましたよ。しかし、まさか人殺では……」
 と相手は真剣になって来ないのである。田中君は、その相手の変にでっぷりと肥えた身体《からだ》や顔のあたりにチラと疑問の眼を向けた。――これほど条件は揃っているのだ、そしてその条件だけは受け容れて置きながら、何故彼はその結果には肯定が出来ないのだろう?
「ひょっとすると……いや、よし、相手がそれならそれで、僕は必ず何かの手掛を発見して
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