の間、いろいろな感情が浮いては消えた。だが青年が眼を開いた時には、それ等の痛ましい閃きは、皆ひとつの、ある強さに変っていた。
「少し厄介だけれどね、僕がこれから云う言葉を云って貰いたいんだ、何、それ程こみ入った挨拶でもない、いいですかね」
訓導が児童に接するような態度で、青年はその言葉と云うのを唱え始めた。実際、それは唱えると云うのが当っていた。彼は青年のそれにつれて、真面目に、所謂《いわゆる》挨拶の言葉なるものを暗誦して行った。
「最初はね、誰でもいいから家の人に会って、いいですか、恩田《おんだ》さんに会わして下さい、急用なんです、伴田《はんだ》からです」
「恩田さんに会わして下さい、急用なんです、伴田からです」
「その通り、次に、恩田と云う老人に会ったらね、いいですか、敏子《としこ》さんに会わして下さい」
「敏子さんに会わせて下さい」
「そう、もっと怒りっぽく云ってもいい。だが敏子には会えない。そこで老人が、何かきっと体采《ていさい》のいいことを云うからね、その時は君の必要なだけ、百円でも二百円でも呉れと云えばいいんだ、うむ直ぐ呉れるからね、それを貰って、その金で、君は君の生活を立て直し給え、ああそれだけ」
そう云ってしまうと、青年はさも最後の努力で使命を果した、と云った様子で、疲れて沈黙《だま》ってしまった。
「恩田さんに会わせて下さい、急用なんです、伴田からです――」
彼は口の中で、も一度それ等の言葉を繰返して見た。何のことだか解らなかった。だが彼は、青年を疑う気にはなれなかった。考えれば考える程起る不審を、青年に諮《ただ》す勇気も持合せなかった。彼の正しい感じに依《よ》れば、この恩人はあまりに疲れていた。若《もし》くは虐げられていたようであった。同情を受ける現在にありながら、彼はなお、この富裕な青年に同情を寄せる事が出来たのであった。
彼は請《こ》われるまま、すべての問題を信の一字に託して、その夜は絹夜具の中に平和な夢を結んだのだった。
4
翌晩――午後の九時過ぎであった。
それまでに入浴、散髪などを強いられ済した彼《かの》野々村君は無理義理やりに、青年の美しい衣服を着せられ、教養ある富裕な青年として、その風采に必要なもの、例えば、正確な型のソフトや、銀の懐中時計や、嫌味のない棒ステッキ、毛皮のトンビに白の繻子《しゅす》足袋、ま新しい正の日和下駄《ひよりげた》、と云った一分の隙もない装《こしら》えを与えられ、愈々《いよいよ》目的の家に向って、その不思議な使命を果すために、恩人の住居を出発した。
閑寂から雑沓への、郊外の電車は込まなかった。彼は若い女達の、明かに衣服の美を羨望する、そのひそやかな視線を全身に感じた。だが、そうした女性特有の敏感さも、それ等異性の体臭と共に、今日は彼にも快かった。
同時に彼は、昨日以来の突然な幸福を、絹物の肌触りの中で、まるでひと事のように考えていた。恩人の使いが何を意味しているのか、何故にかく、一介の自分が不当の財を受け得たのか、それを考え進めることさえも出来なかった。彼はただ、幸福な夢の中に揺られていた。
電車を乗り換え、乗り捨てると、彼は示された町を訊ねた。そこは山の手の、屋敷の多い通りであった。
何かあるんだな、と彼が思ったのは、暗い町柄にもかかわらず、かなりの人数が右往左往していることだった。しかもひとところ、煌々《こうこう》と無数に臨時燈をかかげ、その真昼のような明るさの中に、青磁色無地、剣かたばみを大きく染め残した式幕で門前を廻らし、その左右に高張りを立てて、静まりかえった大家《たいか》を見た。門前に一台の自動車が置かれていた。
右往左往の人々は、多くはこの家から出たり入ったりした。
宴会かな、とふと高張りの字に眼を止めた彼は、思わずおやッと足を止めた。自分の目的地がそこではないか。
念の為《た》め、行人をとらえてその使《つかい》すべき家がそれであることを確めると、彼は勇敢にも、その式幕を潜って表玄関に達した。
玄関にはテーブルを置き、其処には家令らしい老人が、紙硯を前に羽織袴で控えていた。彼は一度口の中で復習してから、教えられた通りを静かに述べた。
「恩田さんに会わして下さい。急用なんです、伴田からです」
彼は胸がドキドキした。がそれでよかった。
「恩田さんとな、暫時《しばらく》お待ちなさい」
機械のように老人が奥へ行くと、かなり間を置いてから、幼い女中が案内に出た。
「どうぞ、こちらへ」
で、彼が通されたのは奥まった洋室だった。応接室とは見えなかったが、簡素な、茶を呑むに格好な造りだった。
待つ間もなく、細面の上品な老人が這入って来た。やはり羽織袴で、酒の加減であろう、上機嫌に見えた。
「わしが恩田じゃが、あんたが伴田さんかな、うむよく来られた、苦しいところをよく来られた、わしはとうから察して居りますじゃ」
老人の面には、チラと同情の影が通り過ぎた。彼は眼を瞑って云った。
「敏子さんに会わして下さい」
「うむ無理もない、じゃがのう伴田さん、世の中の事はむつかしいもんじゃ、意の如くならんもんじゃ、わしは会わせたいが世間がそうはさせぬ。喃《のお》、此処は此の老人に免じて、一先ず引上げて下さらんか? それも素手とは云わん、無理ではあるが金で辛棒して貰い度いんじゃどうかな?」
彼にはこの対応が、事実であるとは思えなかった。自身其処にありながら、何かの芝居を見ているような気がした。老人が、金を呉れることだけは解った。
「二百円下さい」
彼は思い切って云った。顔全体に血の上るのが感じられた。
「いや、よう聞き分けて下された、お礼を申しますじゃ。これで先ずわしの面目も立つと云うもの、では暫く――」
云い流して室を出たが、老人は直ぐに引返して来た。手には瑞曳《みずひき》をかけた部厚な紙包が持たれていた。
「些少《さしょう》ながら、これに金三百円ありまするじゃ。百円はわしの寸志《すんし》、のお伴田さん、男子は何よりも気骨が大切じゃ。小さな事に有為な生涯を誤らないで、折角勉強して下さい」
彼は一度頭を下げると、おずおずと、冷え切った手先にそれを受け取り、以前の女中に案内されて玄関に出た。そしてすすめられる自動車を断り、駈けるような気持で町を電車通りへぬけた。
彼にはおぼろながら、その金子《きんす》の意味が解ったような気がした。何か慌ただしい気持が腹の中で燃えた。あの婆やと二人切りの住居で、使いの安否を気づかいつつあろう青年伴田氏の、寂しい姿が想像された。いかにすべてを与えると約束されたにしろ、彼にはそのまま、何処かへ行ってしまう気にはなれなかった。それが最初からの考えでもあった。
彼は漸《ようや》く、ガランとした郊外電車に身を委すことが出来た。
5
「ところがねえ、僕が伴田氏の家に帰って見ると、君――」
野々村君は、もう声に涙を含め、そこで言葉を途切らしたのだった。
「帰って見ると?」
つり込まれて、私は思わずこう訊き返した。
「――死んでいたんだ、恩人は死んでいたんだ、剃刀で咽喉を切って――。僕は、僕は身も世もなかった、死体に取りすがって埋もれる程泣きたかった――」
ふたりの間には、ながい間言葉がなかった。うそ寒いものが部屋に流れた。
「僕への遺書があってね、僕はそれで現在まで勉強することが出来た。今日こうして生活出来るのも、皆伴田氏のお蔭なんだ。それを思うと非常に心苦しいのだが、僕にもまた、伴田氏同様の運命が訪れている――」
流石《さすが》に私も、自殺を買って呉れとは云い得なかった。私は友の身を気づかいながら、永久にその売手の現れないことを祈りながら、若しくはその借用者の、善良な女性の中に現れることを祈りながら、この哀しい友の家を後にしたのであった。
町々には、柔しい冬の陽が解けかけていた。
[#地付き](一九二七年五月号)
底本:「「探偵趣味」傑作選 幻の探偵雑誌2」光文社文庫、光文社
2000(平成12)年4月20日初版1刷発行
初出:「探偵趣味」
1927(昭和2)年5月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2004年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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