横切り、そしてハーレイ街の中ほどまで下って来るまで、お互いに一言も口をきき合わなかった。
「ワトソン、あんな馬鹿な奴の所へ、下らなく君を引っ張り出してすまなかったねえ」
遂に、ホームズは口をひらいた。
「しかしあの問題のどん詰りまで行けば、面白い事件なんだよ」
「そうかねえ、僕には全然分からない」
私は正直に白状した。
「とにかく何かの理由で、このブレシントンをつけねらってる男が二人、――いや、ことによるともっといるかも知れないが、少くも二人いる、と云うことはたしかなんだ。僕は最初の時もそれから二度目の時にも、例の若い男がブレシントンの部屋に忍び込んだに違いないと思ってるんだ。そしてその間片方では、共謀者が、実に巧みな計略で、例の医者を診察室の中へとじこめちまっていたんだ」
「だがしかし一人の男は顛癇病の患者だったのじゃないかね!」
「なあに、君、ありア仮病さ、ワトソン君、なんだか専問家に僕のほうで教えるような形になって変だけれど、その真似をして仮病をつかうぐらいのことは何でもないんだよ。僕にだって出来る」
「ふむ、――で、それから?」
「それからだね、前後二回とも、ブレシントンが外出中のことだったのは、偶然にそうなったのだと云うことだ。それは、つまり診察してもらうのに、殊更に夕方のそんな変な時間を選んだと云うのは、そんな時間なら待合室には誰もいないのに相違ないからだったのだ。ところが、それが偶然にもブレシントンの毎日の規則と合ってしまったわけなんだ。その二人の男は全くブレシントンが毎日夕方になると散歩に出ることなどは知らなかったのだ。――無論、もしその二人の男が、何か略奪をする目的でやって来たのだとしたら、あのブレシントンの部屋に少くもその辺を探し廻ったらしい形跡がなくてはならない。その上、僕は、大ていの場合、人の目を見れば、その男が何か心に恐怖を持ってる場合には、ちゃんと見抜くことが出来るんだ。――そこで僕はこう見当をつけた。その二人の男は、ブレシントンを讐《かたき》とねらってる男に相違ない、とね。――とすれば、その二人の男が何者だか、ブレシントンは知っていなければならないはずだし、それだからこそ彼はそれを隠して知らないような顔をしているのに違いないのだ。だが、見たまえ、あしたになると、あの男はきっと正直に何もかも打ちあけて話すようになるから……」
「なるほど、それはたしかにそうかもしれないね」
と、私は云った。
「だがその他に、こうも考えられる。その顛癇病のロシア人親子の話は、みんなトレベリアン博士のつくり話で、ブレシントンに対して何かなす所あろうため、そんな話をつくったのではないかと云う事だね」
私は、ホームズが私のこの反対を耳にした時、ニヤリと得意げに微笑したのをガスの光りの中に見た。
「僕もそれは最初に考えたよ」
彼は云った。
「しかし僕は、医者の話は本当のことだと云うことを確かめることが出来た。――と云うのは例の若い男は、階段のカーペットの上へも、ちゃんと足跡を残していっていたので、部屋の内へ残していったと云うその足跡を見に行かなくても僕はちゃんと分かってしまったんだが、ブレシントンの靴もあの医者の靴もさきが尖っているのに、その足跡は四角な爪さきで、そして医者の靴よりは一|吋《インチ》三分の一は大きいのだ。これを見れば、彼の話がつくり話ではなさそうに思われたんだ。――が、まあ、今夜は早く寝て、寝ながら少し考えてみようよ。きっと明日の朝になるとブルックストリートから何か云って使《つかい》が迎えにやって来るから………」
このシャーロック・ホームズの予言は、たちまち見事にあたってしまった。しかも最も劇的な筋みちを辿って。――と、云うのは、その翌朝の七時半頃のことだった。窓からさし込む朝のうす明かりの中に、もう不断服《ふだんふく》に着かえたホームズが、私の寝台の側に立っているのを見出した。
「ワトソン、馬車が迎えにやって来てるんだ」
と、彼は云った。
「何か起きたのかい」
「いいや、例のブルックストリートの事件だよ」
「ああ、――じゃ、何か新しい知らせでもあったんだね」
「悲劇的な、しかも至ってまぎらわしい知らせなんだ」
彼は部屋の窓の鎧戸を引きあけながらそう云った。
「まあ、これを読んでみたまえ、――ノートから破りとった紙の上へ、鉛筆で、――直ちに御来駕御救援願いたし、トレベリアン、――と書いてあるんだからね。たぶん医者は、このノートさえ書くのにやっとだったに違いないんだよ。――とにかくよほど困ってるらしいんだから、いってみてやろうじゃないか」
それから二三十分の後、私たちは例の医院の前に着くことが出来た。と、彼は恐怖に満ちた顔つきをしながら家の中からとび出して来た。
「思いがけないことになったんです」
彼はそう云いながら、自分の手で自分の額を押えた。
「一体、どうしたと云うんです?」
「ブレシントンが、自殺をしちまったんですよ」
ホームズは驚きの声をあげた。
「そうなんです。昨夜《ゆうべ》のうちに、ブレシントンは首をくくっちまったんです」
私たちは家の中に這入っていった。そして医者は、私たちをたぶん待合室であろうと思われる部屋に案内していった。
「実際、私はどうしたらいいのか、全く分からないんです」
トレベリアンは云った。
「巡査はもうとうに来て二階にいます。私はただもうふるえているばかりです」
「あなたが自殺を見つけたのはいつ頃ですか?」
「彼は毎朝早く、きまってお茶を一杯飲むのが習慣だったんですが、今朝も七時に女中がお茶を持って部屋に這入って行くと、その時には既に、彼は部屋の真ん中にブラさがっていたのだと云うことです。――いつもあの重いランプをかけることにしていた鈞《はり》に、紐をむすびつけて、昨日私たちに見せたあの箱の上から飛んでぶらさがったものらしいですね」
ホームズはしばらくの間じっと考えて立っていた。
「ねえどうでしょう」
ホームズはやがて云った。
「僕も二階へいって、事件を調べてみたいんですがね」
そこで私たちは医者につれられて二階に上って行った。
そうして私たちがその寝室に這入って見た光景は、実に恐ろしい眺めだった。私は、これがブレシントンかと思われるように、グニャリとしてたれさがっていたその様子を、どうしてもここに書き現すことは出来ない。その鈞《はり》からぶらさがっている様子は、どうしても人間だとは思われなかったと云っても、少しも誇張ではないのである。その首は、ひねられた鶏の首のように伸びて、余計にからだ全体を太っているように見せ、その対象の奇妙さと云ったらなかった。それはブレシントンの長い寝巻きをまとった粘土細工で、その下からふくれ上った踵と不恰好な足とがニョキッとまる出しになっているのにすぎないのであった。――そしてその側にはすばしっこそうな警察の探偵が立って、しきりに懐中手帳に何か書きとめていた。
「ああホームズさん」
ホームズが這入って行くと彼は云った。
「あなたがいらしって下すったのは、大変有難いです」
「お早う、レーナー君」
ホームズは答えた。
「余計な奴が闖入して来たと思わないでくれたまえよ。――君はこの事件を引き起こした原因になるべきいろいろな出来事について、きいたかね?」
「ええ、大体はききました」
「で、君の意見はどうかね?」
「私の見ました限りでは、この男は何かの恐怖のために精神に異常を来たしたものじゃないかと思うんです。――ごらんのようにベットには寝ていたらしい形跡があり、しかも彼のからだの形がそのまま深く残っています。――普通、自殺と云うものは、朝の五時頃に行われるのが一番多いと云うことはあなたも御存じの通りですが、彼の自殺もやはりその頃に行われたのじゃないかと思うんです。――しかしいずれにしてもこれは、慎重に考うべき事件らしいような気がします」
「筋肉のかたまりかたから見ると、死んでから三時間ぐらい経過していますね」
私は云った。
「その外に、この部屋の中で何か変ったことはありませんでしたか?」
ホームズは訊ねた。
「螺旋《ねじ》まわしと二三の螺旋を手洗い台の上で見つけました。それから前の晩にはよほどひどく煙草を吸ったらしい紙を見ました。ここに暖炉の中からひろい出した葉巻の吸いさしが四つあります」
「ふーむ」
ホームズは云った。
「彼の葉巻パイプを持ってますか?」
「いいえ。そんなものは見えないようでしたよ」
「じゃ、葉巻入れは?」
「ああそれは上衣《うわぎ》のポケットの中にありました」
ホームズはその葉巻入れをひらいて、その中にたった一本残っていた葉巻の匂いをかいでみた。
「ああ、これはハバナだ。――けれど、そのほかのは、東|印度《いんど》の殖民地から輸入されるドイツ煙草で、全然何か別種の葉巻らしい。――それは君も知ってるように、大ていはストローでつつんであって、ほかの種類のものに比較すると、長さの割に細巻のものだ」
彼はそこにある四つの吸い残りをつまみ上げて、それらを懐中レンズで調べてみた。
「このうち二つはたしかにパイプで吸われたものだが、他の二つはパイプなしで吸われたものだ」
と彼は云った。
「それから二つの口はあんまり鋭くない刄物《はもの》で切ってあるけれども、他の二つは丈夫な歯でくい切ってある。――レーナー君、これは何だね、自殺じゃないね。これは実に巧妙に仕組んである、冷酷な殺人だよ」
「そんなことはないでしょう」
と、探偵は叫んだ。
「なぜさ?」
「なぜって、そうじゃありませんか、首をくくらせるなんて、そんな気のきかない人殺しの仕方なんてあるものですか」
「いや、それは僕たちが発見した時の死人の様子なんだよ」
「しかしそれならどこから這入って来たんでしょう?」
「前の入口からさ」
「でも今朝は、そこにはちゃんと閂がかかっていましたよ」
「そりア仕事がすんでからかけたからさ」
「だが、あなたはどうしてそれをご存じなんです?[#「ご存じなんです?」は底本では「ご存じないんです?」]」
「その跡がちゃんとあるよ。――ちょっと待ちたまえ、今、君にもっと不思議なことを見せて上げるから」
彼は入口のドアまで歩いていった。そしてそこの鍵を、彼独得の法則にかなったやり方で調べた。それから内側にある鍵もとって、しらべてみた。また寝台も敷ものも椅子も暖炉も死体も綱も、順々にみんなしらべてみた。彼の満足が行くまで。――そうして私と探偵との手を借りて、その死骸を下におろして、うやうやしく被いものでおおった。
「この綱はどこから持って来たものなんです」
彼はきいた。
「これから切ったんですよ」
トレベリアン博士は寝台の下から、大きな綱の束を引っぱり出しながら、答えた。
「ブレシントンは無暗《むやみ》に火事をこわがったんです。だものですから、もし火事がおきて来て階段が燃えるようなことがあった場合、窓から逃げられるようにと云うのでこの綱を、いつも自分の側においといたんです」
「なるほどね、その綱が、彼の生命を救うどころかかえって奪ってしまったと云うわけなんですね」
ホームズは考え深そうにそう云った。
「それで大体事件は想像がつきましたよ。――きょうの午後までには、すっかり判明させることが出来ると思います。――あの暖炉の上のブレシントンの肖像をとりおろしてもいいでしょう。ちょっと調べてみたいことがあるんですが……」
「けれど私にはまだ、何も話して下さらないじゃありませんか」
と医者は云った。
「ああ、そうでしたね。――こう云うことだけは、この事件について疑いのない所ですね」
ホームズは云った。
「この事件の中には、三人の男がいると云うことです。――若い男と年をとった男とそれからもう一人、――その男についてはまだどんな男か、私は手がかりがつかないでいるんですが。――しかしとにかくその初めの二人の男ですね、それは例のロシア貴族とその息子とに化けて来た男であることは、申上げるまでもないことでしょう。その男たちは、誰
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