いと思っているのですが、無論なんですよ、人間は最初に初めた事をやり通すべきなんですがね。――しかし、こんなことをしゃべっている時じゃありませんね、シャーロック・ホームズさん。――実はこうなんです。最近、私のブルック街の家に、実に奇妙な事件が持ち上ってるんです。で、今夜はとうとう、明日《みょうにち》まで待つことが出来ずに、あなたのお力を拝借にやって来たわけなんです」
シャーロック・ホームズは腰をおろして、パイプに火をつけた。
「本当によくいらしって下さいました」
彼は云った。
「どうか、あなたをなやましていると云うその事件を、こまかく詳しくお話しになって下さいませんか」
「その一つ二つは実際つまらない事なんです」
トレベリアン医師は云った。
「実際それをお話するのはお恥ずかしいくらいなんです。しかし事件は実に合点がいかないばかりか、最近、あなたがたにお話ししなければならなくなったほど、こみ入って来たのです。――どうか、私がお話する所から、肝要な箇所とそうでない箇所とを御判断なすって下さい。
最初に、どうしても順序として、私の学生時代のことからお話しなければなりません。御承知のように私はロンドン大学の卒業生なんです。実は、自分で自分のことをほめてお話しするのは変なものなんですが、私は学生時代、大学の教授達から前途を大いに嘱目されていたのでした。だものですから、私は卒業してからも、キング・コレッジ病院に職を奉じながら、自分の研究に没頭することをつづけておりました。私は幸福にも、顛癇病の病理学を研究する事に、異常な興味と昂奮とを持っていたのです。そしてただいまあなたのお友達が私をおからかいになった例の神経傷害に関しての論文によって、ブルース・ピンカートン賞と賞盃とをかち得ることが出来ました。――けれども私は、よしその時、そんなに素晴らしい前途が目の前に開《ひ》らけていても、私はそれからさきにすすむべきではなかったのです。
と云うのは、私の大望をとげるには、一つの大きな障害を乗り越えなければならないのでした。こう申せばあなたにはもう既に了解していただけたことと思いますが、偉くなろうと云う、高い望みを持っている専門医は、カベンディッシ・スクエア区のうちの十二街のどれか一つに開業しなければなりませんでした。ところがそこに開業するには、素晴らしく高い家賃の家を借り、家の中もお金をかけて飾らなくてはならないのです。おまけに、こうした予備的入費の上に、四五年は遊んで食うだけのお金の用意と、また見かけの立派な馬車と馬とをやとえるだけのお金を持っていなければならないのでした。こうしたことをするのは、全く私の力以上のことで、でなくても、少くも十年間私が倹約して貯金してからでなくては、そんなことは出来そうもなかったのです。――ところがどうです、その時突然、全く思いもかけなかった一つの出来事が、私に新しく私の前途の望みをひらいてくれたのです。
それは、私には全然赤の他人の、ブレシントンと云う名の紳士に訪問されたことでした。彼はある朝突然に私の部屋にやって来て、いきなり話をきり出しました。
「あなたは、例の大学時分非常なすぐれた成績をおあげになって、そして最近例の賞盃をおもらいになった、あのペルシイ・トレベリアン君でしょう?」
彼は申しました。私はそうだと答えました。
「では、どうぞ卒直にお答えになって下さいませんか」
彼はつづけました。
「そうして下さるほうが、あなたのおためになるのです。――あなたは人間を成功させるための賢さはみんな持っている。――ところで世才はおありですか?」
私はそのぶしつけな質問に、思わず笑わずにはいられませんでした。
「ええ、まあ、相応にはあるつもりです」
私は答えた。
「では何か悪い習慣は?――お酒をお飲みになるなんてことはないんでしょう?」
「もちろん、飲みません」
「至極結構。そりア結構です。――しかしもう一つきかなくちゃならないことがあるんです。それなら、それだけの条件が揃っているのに、なぜ開業なさらないのですか?」
私は肩をそびやかしました。
「よござんす、よござんす」
彼は彼一流のせわしない口調で申しました。
「そんなことは分かりきっている話です。――あなたはあなたのポケットの中よりあなたの脳の中のほうがたくさん貯蓄があるんでしょう。え? そうじゃありませんか。――ところで、どうでしょう、私はあなたを、ブルック街に開業させてお上げしたいと思っているんですが……」
私はびっくりして彼を見詰めました。
「いや、それはね、あなたのためではなく、私自身のためなんですよ」
彼は声を大きくして云いました。
「私は何もかも洗いざらいかくすことなく卒直に申しますよ。そのほうが、あなたにもいいでしょうし、また私にも大変都合がいいんですから。――実は、私はここに数千ドル何かに投資したいと思ってるお金があるんです。そこで私はそれをあなたにかけてみたいと思ってるわけなんです」
「しかしそれはどう云うわけでそうお思いになったのですか?」
私は咽喉のつまったような声で云った。
「理由ですか?――それはつまり他のものの投機をやるのと同じような理窟からです。でもその中でこれは一番安全ですからね」
「で、もしそうして下さるとしたら、私はどう云うことをしたらよいのでしょう?」
「それをお話ししましょう。――私は家を建てて、それをすっかり飾りつけて、召使いたちの給料を払って、ほうぼうへ宣伝をする、――それは私がやります。――ですからあなたはただ診察室にすわっていさえしたらいいのです。――おお小使いやその外《ほか》身の廻りのものは私がみんな心配してあげます。その代り、あなたが稼いだ四分の三を私に下さい。そしてその残りはあなたの収入と云うことに……」
ホームズさん、これが、ブレシントンが私の所へ持って来た、奇妙な申込みの条件だったのです。それから私は、彼とどんな風に取引し、どんな風に約束したかは、くどくどと申上げるまでもないことでしょう。私は次の通告節に引越していって、そして彼が初め申出たのと同じ状態のもとに、いよいよ開業したのでした。そしてブレシントン自身も、ちょうど、入院患者のような格好で、私と一しゃに住むことになりました。彼は心臓が弱く、いつも医者の監督が必要らしいのでした。――彼は一階の最上等の部屋を二部屋占領して、一つは居間に、一つは寝室に使っておりました。彼は奇妙な孤独癖の人間で、人ともあまり交際せず、外出することなどはほとんどありませんでした。彼の日常生活はむしろ不規則的でしたが、しかしただある一つのことに関してだけは、実に規則そのもののように正確でした。それは毎日夕方になると、診察室の中に這入って来て、帳簿を調べ、それから私が稼いだお金を、一ギニアについて五シルリングと三ペンスだけおいて、あとの残りはみんな持っていって、自分の部屋の中においてある丈夫そうな箱の中にしまうことでした。
さて次に商売のほうですが、少くも私の知ってる範囲では、彼がその評判を悲しまなければならないような機会は、ただ一度もなかったろうと、確信しております。それは初めから成功でした。私がその前に、病院でかち得ておいた評判や、また二三の成功などのために、私はすごい勢《いきおい》ではやり出しました。そしてこの一二年の間に、私は彼をすっかりお金持ちにしてやってしまったのです。
ホームズさん、私の今日まではこんな風な生涯だったのです。そしてまたブレシントンとの関係も今お話したようなわけだったのです。――そこでこれからお話しなければならないのは、今夜の出来ごとなのですが……
ちょうど二三週間前のことでした。ブレシントン氏が突然に、私の所へやって参りましたが、彼は何だか、変にイライラしているらしいような様子でした。そして彼はしきりに、西部地方で起きた盗難事件のことを話し、滑稽なほど昂奮して、どうしても私たちも二三日のうちに、窓や扉へ丈夫な閂《かんぬき》をつけなくてはならないと主張するのでした。そうして、それからと云うものは一週間の間、毎日休みなく窓から外をのぞいては見るのです。そして彼が昼飯をとる前には必ずその辺をブラブラして来る恒例の散歩もやめてしまって、その奇妙な昂奮状態にいるのでした。――こうした彼の様子から、私は、彼が何かの恐迫観念に捕われているのに相違ない、と感づきました。しかし私が彼に、何かそのことについてきき出すと、彼は猛烈に反抗的になって来て、どうしても何か他の事に話をそらしてしまわないわけにはいかないのでした。が、――有難いことに、そんな風にしてしばらく日を経ているうちに、次第に彼の恐迫観念は消えていって、また普通の彼にかえったのです。ところが、事実はそれはツカの間の喜びで、また新しい出来事が彼を再び気の毒な虚脱の状態にもどらしてしまったのでした。そうして現在彼はその状態にいるのです。
一体、その彼を再びそんな状態に追い込んだ出来事と云うのは、どんな出来事なのか? と申しますと、二日前のことでした。今あなたに読んでおきかせしますが、一通の、日附けもなければ、住所も書いてない手紙を受取ったのです。
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――こちらはただいまイギリスに滞在中のロシヤの貴族ですが、――
と、その手紙は書き出されていました。ペルシー・トレベリアン博士に御診察をぜひお願いしたいと思っております。実はこちらの患者は数年来、顛癇の発作に悩まされているのでございます。幸いトレベリアン博士は顛癇病の大家であるとききましたので、明日午後六時十五分頃にお伺い致したいと思います。御迷惑でも御在宅のほど御願い申上げます。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙は私に深い興味を起こさせました。なぜなら、この顛癇病の研究にとって、一番苦しいことは患者が非常に少いと云うことだったからです。ですからその翌日、その手紙が指定して来た時間に、私はちゃんと診察室に坐って、その患者の来るのを待っていたことは申すまでもありません。
その男は年をとった、痩せぎすな真面目そうな当り前な男で、どこにもロシアの貴族と云ったような感じは少しもありませんでした。が、それよりももっと私を驚かしたのは、その患者の附添いの男でした。それは背の高い若い男で、色の浅黒いしっかりした顔つきに、ヘラクレスのような丈夫そうな四肢と胸とを持っている、見るから堂々とした男でした、彼は患者を肩に倚りかからせながら這入って来て、静かに椅子に腰かけさせました。彼の表情を見ていただけでは、彼のどこに、そんな風に患者をいたわるやさしさがあるのだろうと思えるほど、彼は堂々としていたのです。
「ごめん下さい、先生」
と、彼は流暢な英語で挨拶しました。
「これは私の父でございます。私にとってはこの父の健康は、何ものにもかえがたい大切なものなのです」
私は彼のその子としての心痛にいたく心を動かされました。
「診察にお立ち合いになりますか?」
私は云いました。
「とんでもない」
彼は恐ろしそうな顔をして叫びました。
「とても私には苦しくって見てはいられないんです。私は父親が、この病気の発作に襲われるのを見るたびに、まるで死んだような気がするのです。私の神経組織は、お話にならないほど弱々しく敏感なんです。――私はお許しをいただいて、診察が終るまで待合室で待っております」
無論私は彼の申出に同意しました。そしてその若い男は診察室から出て行きました。こんな風にして、いよいよ私は、患者と二人きりになり、その診察に移り、私はその様子を熱心にノートに記して行きました。患者にあまり高い教養はないらしく、時々その答弁は曖昧に分かりにくくなりましたが、私はそれを彼が私たちの国の言葉にまだ不馴れだからだ、と云うような様子を装ってやりました。けれどもそのうちに突然に、彼は私の問いに答えるのをやめましたので、私は驚いて彼を見ていますと、彼はやがて椅子から立ち上って、全く無表情な硬わばった顔をして、私をまじまじと見詰め
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