全体がぬらされたものだとすると、無論そんな紙ははがれてなくちゃならないさ。そこで、君は腰かけていて、火に足をさし出していたんだと云うことになったんだけれど、この六月なんて云う暖い季候に、いかにスリッパが湿ったからと云って、普通の健康体の人間なら火に足をかざすなんてことはしっこないからね」
 ホームズの推理はすべて、いったん説明されると、いかにも単純そのもののように見えてしまう。彼は私の顔色をうかがってから、微苦笑した。
「僕はどうも思うように説明出来ないので困るんだよ」
 と彼は云った。
「原因の分らない結果と云う奴のほうが、実際深く印象されるからね。――それはそうと、君はバーミングハムへ来てくれられるんだね?」
「無論行くとも。――どんな事件なんだい?」
「汽車の中で話すよ。――この事件の依頼人が表の四輪馬車の中にいるから。すぐいかれるかい?」
「ああ、すぐ」
 私はすぐ隣に[#「隣に」は底本では「隣の」]住んでいる男に手紙を書いた。そして二階へ駈け上って、妻に理由を話し、入口の敷居の上に立っていたホームズと一しょになった。
「お隣さんって云うのは、お医者さんかい?」
 と、彼は隣の家の真鍮の門札をのぞき込みながら云った。
「ああ、そうだ。僕と同じように、医院を買ったんだ」
「だいぶ古くからあった医院だったのかい?」
「僕が買った医院と同時に開かれたものだ。家が建てられて以来、ずっと二軒とも医院だったらしい」
「ハハア、すると君はそのうちではやる[#「はやる」に傍点]ほうを買ったんだね」
「ああ、そうしたつもりなんだ。けれどどうしてそれが分かる?」
「玄関の階段を見れば分かるさ、君。君の家のは隣ののよりは三インチも余計にへってるもの。――ところで馬車の中にいる男は、依頼人のホール・ピイクロフトと云う男だがね、今、君を紹介するから。――オイ、馭者君、汽車にカチカチに間に合うくらいしか時間がないから、いそいで飛ばしてくれ」
 私が向き合って坐ったその依頼人と云う男は、あけっ放しな正直そうな顔つきをした、薄いちぢれた黄色い髭をはやした男で、体格のガッシリした活々とした様子の若者だった。彼はピカピカ光るシルクハットを冠《かぶ》って、手入れのとどいた地味な黒い服を着ていた。がそれは彼が、軽快な若い都会人、――それも代表的なロンドンっ児で、この国の他のどの階級よりもより多くの義勇兵と競争者と運動家とを出す階級に属している人間であることを、物語っていた。そして彼の丸々とした血色のいい顔は、自然に愉快さで満されていたが、しかしその口の端には、彼が半分はむしろ喜劇的な不幸のためにすっかり沈んでいるらしい所が見えた。もっとも彼がどんな不幸に会って、シャーロック・ホームズの所へ飛び込んで来たかと云うことについては、私たちが一等車に乗り込んで、バーミングハムの旅に旅立ってからようやくきくことが出来たのではあったけれど……。
「七十分間この汽車で走るんだが……」
 とホームズは云った。
「ねえ、ホール・ピイクロフト[#「ピイクロフト」は底本では「ビイクロフト」]さん、あなたの出会った今度の興味深い事件を、私の友達にも話してやって下さいませんか。私に話して下すったと同じように正確に、いや、もし願われるなら、それよりも精密に。――私ももう一度事件の関係をおききしたほうが、いろいろ参考にもなるんです。――ワトソン君、つまりこの事件の中に何事かがあるか、あるいは何もないかをしらべればいいんだ。しかし少くも事件は、実に奇妙な常規を逸したものなんだ。そしてそれは私にも君にも非常に興味のある事件なんだよ。――どうぞピイクロフトさん、お話しになって下さい。私はもうしゃべりませんから……」
 私たちの若い同行者は、目の玉をクルリと廻して私を見た。
「今度のことで一番に悪かったことは、私が私自身を、すっかり狼狽しちまって、まるで馬鹿のように振舞ったと云う所にあるんです。――無論、それでも私は全力をつくしてやったんです。私にはそれより外に出来ることがあるとは思えなかったんです。けれども、もし私が切札をなくしてその代りに何もとらなかったら、私は自分を、何と云う馬鹿な英国人だろうと感じたでしょう。――ワトソンさん、私はお話するのが、余り上手ではありません。――けれどありのままを申上げましょう。
 私は呉服屋街のコクソンの店に務めていたんですが、この春大きな損をしまして、たぶん御存じかと思いますが、店がいけなくなっちまったんです。私はそこに五年おりました。だものですから、いよいよ店が破産する時に、私には実に立派な証明書をくれました。――無論、我々事務員は、みんなで二十七人もいたんですが、店が潰れると同時に、みんな散り散りばらばらになってしまいました。――私はあっちへもこっちへも
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