いた。そして彼の踵は、私たちの話を邪魔した、あの音を立て得るくらいに床とすれすれになっていた。私はすぐさま彼の胴に抱きついて彼のからだを持ち上げた。そしてホームズとピイクロフトとは、灰色になった皮の皺の間に食い込んでいる、ズボンツリをといた。それから私たちは彼をほかの部屋に運んで来て、そこへ寝かした。彼は石盤のような顔色になり、紫色になった唇は泡をブツブツやって、――たった五分前までは生きていた彼のからだは、恐ろしい骸《むくろ》になっていた。
「ワトソン、君はどう思うね?」
と、ホームズはきいた。
私は彼の上にかがみこんで診察してみた。彼の脈は弱く、絶えたりつづいたりしていた。けれども呼吸はだんだん長くなって来た。そして目ぶたは軽くふるえて、下にある薄白い眼球をかすかに見せていた。
「やってみよう」
私は云った。
「まだ生きてる。――窓を開いて、水を持って来てくれたまえ」
私は彼のカラーをはずして顔の上に冷《つめた》い水を注ぎかけ、そして長い自然な呼吸をするようになるまで、彼の腕を上下した。
「こうなればもう時間の問題だ」
私は彼から離れてそう云った。
ホームズは、彼の両手をズボンのポケットに深くつっこんで、顎を胸に埋《うず》めたまま、テエブルの側《そば》に立っていた。
「今のうちに巡査を呼びにいっといたほうがいいと僕は思うんだが」
と、彼は云った。
「そして実は、巡査が来たら、終りになったこの事件をこのまま向うへ引渡してしまいたいと思ってるんだけれどね」
「私には忌わしい謎だ。――何の目的で、あいつ等は私をわざわざここまで連れ出したんだろう。そしてそれから――」
ピイクロフトは頭を掻きむしりながら叫んだ。
「馬鹿な! そりアもうすっかり分かりますよ」
と、ホームズはいらいらして云った。
「分からないのは、この最後の急な自殺騒ぎです」
「じゃ、他のことはみんなお分かりになってるんですね」
「極めて明瞭に分ってるつもりです。君の意見はどうかね、ワトソン?」
私は肩をすくませた。
「云いにくいけれど、僕には力に余るんだ」
私は云った。
「そうかね。だが、最初に、事件をよく注意して見れば、解決はただ一点に帰着するだけだよ」
「君はどんな風に解決したんだい?」
「いいかね、この事件のすべては、二つの点が中心となっている。第一の点は、ピイクロフトがこの盛大なる結構な会社の職にありつく時、宣誓書を書かされたと云うことだ。――君は、そこが実に怪しいとは思わないかね」
「どうもよく分からないね」
「じゃ、なぜあいつ等は、ピイクロフトにそんなものを書かせたんだろう?――それは事務的な目的ではない。なぜなら普通これらの約束は言葉だけでやってるんだから。とすれば何か他に目的がない限り、事務の上ではそんなことをする理由は絶対にないんだ。――ね、ピイクロフト君、お分かりになりませんか? あいつ等はあなたの手跡の雛形をとりたいと苦心していたので、あの時、あなたにそうさせるより他に方法がなかったのだと云うことが、――」
「だが、なぜそんなものがほしかったのでしょう?」
「そこです。なぜ? それにお答えすれば、この事件の解決も少し進むわけなのです。なぜそれがほしかったか? それにはうなずける理由はただ一つしかありません。誰かがあなたの手跡の真似をするために習おうと思ったのです。そしてそのためには、まずその見本をせしめなければならなかったのです。そこで第二の点に行くわけですが、そうなればこの二つの点が、お互いに重大な関係を保ち合ってると云うことが分かるんです。――第二の点と云うのは、あなたに辞表を出させないで、しかも有望なこの堂々たる商売の支配人と云う地位をそのまま手もふれずに残させるようにした、ピナーの要求です。ピナーから云えば、その支配人と云う地位は、彼が会ったこともない、ホール・ピイクロフトと云う人間が、月曜日の朝から来ることになっていたのです」
「ああ神様よ」
私たちの事務員は叫んだ。
「私は何と云う盲目野郎だったんだろう!」
「これであなたは、その手跡のことを想像してごらんなさい。何者かがあなたの代りになって、あなたがとっておいた就職口に行くのです。無論、たくらみはうまく行くでしょう。その男はあなたとは似てもつかない字をかくのです。しかしその悪漢は、ひまひまにあなたの字の真似を習います。そしてそのために彼の位置は安全になります。少くもその事務所に誰一人、前にあなたを見たものがいないかぎりは」
「畜生め!」
ホール・ピイクロフトは呻《うめ》いた。
「まったくですよ。――もちろん、あなたに、あなたが得た就職口をよく思わせないようにすることが、非常に大切なことだったんです。それからまた、あなたが誰か、モウソン事務所であなたの名をか
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