「僕も実はおまえの言うような気持がしたよ、」とアッタスン氏が言った。
「全くさようですよ、旦那さま、」とプールが答えた。「ところで、その猿のような覆面をした者が薬の間から跳び出して書斎の中へ駆けこみました時に、その感じが氷のようにぞっと私の背骨を通ったのでございます。おお、そんなことは証拠にゃならないということは知っていますよ、アッタスンさま。それっくらいのことは私もちゃんと存じております。しかし人には感じというものがございます。で、あれがハイドさんだったということは、私は聖書にかけても誓いますよ!」
「なるほど、なるほど、」と弁護士が言った。「僕もどうもそうじゃないかと思う。あの二人の関係から、よくないことが出来たのだろう、――よくないことが起こるにきまっていたのだ。なるほど、全く、おまえの言う通りだと思う。気の毒にハリーは殺されたのだと僕も思う。そして彼を殺害した者は(何のためだか、神さまだけしかご存じではないが)まだその被害者の部屋に潜んでいるのだと思う。よし、我々は復讐をしてやろう。ブラッドショーを呼んでくれ。」
その馬丁は呼ばれて真っ蒼になってびくびくしながらやってきた。
「しっかりするんだ、ブラッドショー、」と弁護士が言った。「こういうどっちつかずの有様がお前たちみんなを怖がらせているんだよ。だが今我々はこんな有様にけりをつけようと思っているのだ。ここにいるプールと僕とがこれから書斎へ押し入るつもりだ。もしみんながよければ、僕が一切の責任を負うてやる。その間、何かへまをしたり、犯人が裏口から逃げ出したりするといけないから、おまえとあのナイフ研ぎのボーイとは丈夫な棒を一本ずつ持って、角をまわって、実験室の戸口のところで張番をしていなければならない、おまえたちがその部署につくまで、我々は十分間待つとしよう。」
ブラッドショーが立去ると、弁護士は自分の懐中時計を見た。「さあ、プール、我々も部署につこう、」と彼は言って、火掻きを小脇に抱えて、先に立って裏庭へ出た。風に吹かれて飛ぶ雲がちょうど月をおおっていて、そのときは真っ暗であった。建物にかこまれて深い井戸のようになっている裏庭には、ときどき隙間風が吹き込んできて、蝋燭の光を二人の足もとへあちこちと揺り動かした。やがて彼らは風の当らない階段講堂へ入ると、黙ったまま腰を下ろして待った。ロンドンのどよめきは重々しく四方から聞こえていた。しかしあたりは静かで、ただ書斎の床をあちこちと歩き回っている足音だけがきこえていた。
「ああして一日中歩いているのですよ、」とプールが囁いた。「いいえ、昼間ばかりか、夜も大抵はああなのでございます。ただ薬屋から新しい見本が参りました時だけ、ちょっとやむのです。ああ、あんなにまで落着けないのは良心が咎めるからですよ! ああ、旦那さま、あの一歩一歩に人殺しをして流した血があるんですよ! だがもう一度聴いてごらんなさいまし、もう少し近くへ寄って、――ようく耳を澄ましてごらんなさいまし、アッタスンさま。あれが博士の足音でございましょうか?」
その足音は、非常にゆっくり歩いていたにも拘らず、威勢のよい調子の、軽やかな奇妙なものであった。ヘンリー・ジーキルの重々しい軋むような足取りとは全く違っていた。アッタスンは溜息をついた。「ほかに何も変ったことはないかね?」と彼は尋ねた。
プールはうなずいた。「一度、」と彼が言った。「一度私はあれが泣いているのを聞きました!」
「泣いていた? それはどうした訳で?」と弁護士は急に恐怖の寒気を覚えながら言った。
「女か、それとも地獄へ堕ちた亡者みたいに泣いておりました、」と召使頭が言った。「それを聞いて戻って来ますと、それが心に残って、私までも泣きたくなるくらいでした。」
しかしその時、約束の十分も終りかけていた。プールは積み重ねてある荷造り用の藁の下から斧を引き出した。蝋燭は、攻撃にかかる二人を照らすために、一番近くのテーブルの上に置かれた。そして二人は、夜の静けさの中を、あの根気強い足首がやはり往ったり来たり、往ったり来たりしているところへと、息を殺してちかよって行った。
「ジーキル、」とアッタスンが大声で呼んだ、「僕は君に会いたいのだ。」彼はちょっと言葉を切った。が何の返事もなかった。「僕は君にはっきり警告するが、我々は疑いを起こしたのだ。それでわたしは君に会わなければならんし、また会うつもりだ、」と彼は言葉を続けた。「もし正当な手段で会えなければ、非常手段ででも、――もし君の同意がなければ、暴力を用いてでもだ」
「アッタスン、」とさっきの声が言った、「後生だから、容《ゆる》してくれ!」
「ああ、あれはジーキルの声じゃない、――ハイドの声だ!」とアッタスンが叫んだ。「ドアを打ち破れ、プール。」
プールは斧を肩の上にふり上げた。打ち下ろすと建物がゆれ動き、赤い粗羅紗を張ったドアは錠と蝶番とに当って跳ね返った。まるで動物的な恐ろしい叫び声が書斎から響きわたった。斧が再びふり上げられ、再び鏡板ががあんと音を立て枠板が跳ね返った。こうして四度打ち下ろされたが、木は堅かったし、取付けの器具は丈夫に出来ていた。それで五度目になってやっと、錠がばらばらに打ち砕け、ドアの壊れたのが内側の絨毯の上に倒れた。
攻めかかった二人は、自分たちのやった乱暴と、その後の静けさとにぞっとして、ちょっと後へ下って覗きこんだ。彼らの眼の前には、静かなランプの光に照らされた書斎があった。暖炉には気持のよい火がぱちぱち音を立てて真っ赤に燃えていた。湯沸しは低い調子で歌を歌っていた。ひきだしが一つ二つ開いていたし、事務用のテーブルの上には書類がきちんと並べてあった。炉の近くには、茶道具があって茶を入れる用意がされていた。もしこの室に、薬品の一杯入っていた硝子張りの戸棚さえなかったなら、その夜ロンドン中でも一番静かな室とも、また一番平凡な室とも言えたろう。
室のちょうど真ん中に、ひどく※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ曲ってまだぴくぴく動いている一人の男の体が横たわっていた。二人は爪先を立てて近寄り、それを仰向きにすると、見えたのはエドワード・ハイドの顔であった。彼は、自分には大分大き過ぎる、博士の着るくらいの大きさの衣服を着ていた。顔面神経はまだ生きているもののように動いていた。が生命は全くなくなっていた。そして、片手に持っている割れた薬びんと、空中に漂っている苦扁桃水の強い臭いとによって、アッタスンはそこに倒れているのが自殺者の死体であることを知った。
「我々は来るのが遅過ぎた、救うにしても罰するにしてもだ、」とアッタスンは厳《いかめ》しい口調で言った。「ハイドは死んでしまった。あとはもうおまえの御主人の死体を探し出すことだけだ。」
その建物の大部分は、階段講堂と、書斎とで占められていた。階段講堂は殆ど一階全部をふさぎ、上から明りを取ってあったし、書斎は二階の一方の端にあって、あの路地に面していた。階段講堂と例の横町の戸口とは廊下でつながり、その戸口と書斎とは別にもう一つの階段で通じていた。そのほかには暗い物置が二つ三つと、広い穴蔵が一つあった。今二人はこれをみんな綿密に調べた。物置はどれも一目見ればよかった。というのは、どれもみんな空っぽだったし、どれもみんな戸から埃が落ちてくるのを見ても、永いこと開けずにおいてあったことがわかったからである。穴蔵は、ほとんどがジーキルの前に住んでいた外科医時代からのものである、壊れかけたがらくた物で一杯になっていた。けれども、戸を開けただけで、幾年も入口を閉ざしていたまるで莚のような蜘蛛の巣が落ちてきたので、それ以上搜してみても何にもならないことを知らされた。生きているにしろ死んでいるにしろ、どこにもヘンリー・ジーキルのあとかたもなかった。
プールは廊下の板石を踏んでみた。「あの方はここに埋められておいでになるに違いありません、」と彼はその音に耳を傾けながら言った。
「それとも逃げたのかも知れない、」とアッタスンは言い、そして横町の戸口を調べに行った。戸には錠が下りていた。そしてすぐ傍らの板石の上に、二人はとっくに錆びている鍵を見つけた。
「これは使えるようには見えないな、」と弁護士が言った。
「使えるですって!」とプールは鸚鵡返しに言った。「壊れているではございませんか、旦那さま? まるで人が踏みつけでもしたように。」
「ああ、ああ、」とアッタスンは言葉を続けた。「それに、折れたところまで錆びている。」二人はぎょっとしてお互いに顔を見合わせた。「これは僕にはわからないよ、プール、」と弁護士が言った。「書斎へ引返すとしようじゃないか。」
二人は黙々として階段を上り、そしてなおも、ちょいちょい死体を恐ろしそうにちらりと見ながら、書斎の中にある物を前よりももっと綿密に調べにかかった。一つのテーブルには、化学上の仕事をしていた形跡があり、いろいろの分量の白い塩のようなものが幾つも硝子皿に盛ってあって、その不幸な男が実験をしようとしているところを妨げられたかのようであった。
「あれは私がいつも持って参りましたのと同じ薬でございます、」とプールが言った。ちょうど彼がそう言った時に、湯沸しがびっくりするような音を立てて煮えこぼれた。
それで二人は炉辺へ行った。そこには安楽椅子が心地よさそうに引き寄せてあり、茶道具が椅子に掛ける人の肱のところに用意してあって、砂糖までも茶碗の中に入れてあった。書棚には本が何冊もあって、一冊は茶道具の傍らに開けたままになっていた。それがジーキルがかねて幾度も激賞したことのある信仰についての書物で、それに彼自身の手跡で、神への驚くべき不敬の言葉が書き込んであるのを見て、アッタスンは非常に驚いた。
それから、二人がその部屋を調べているうちに、姿見鏡のところへやって来て、思わずぞっとして鏡の奥をのぞき込んだ。しかし、鏡のむき工合で、ただ、天井にちらちらしている薔薇色の光と、戸棚の硝子戸に幾つにもなって映っているきらきら光る炉火と、屈んでのぞき込んでいる自分たちの蒼ざめた恐ろしげな顔とのほかには、何も映って見えなかった。
「この鏡はいろいろ不思議なことを映したのでございますよ、旦那さま、」とプールが囁いた。
「それに、こんな鏡があるということが確かに何よりも不思議だよ、」と同じ調子で弁護士が言った。「なぜって言えば、一たい何だってジーキルは、」――彼はその言葉にぎょっとして止めたが、やがてその気の弱さに打ち勝って、「一たい何だってジーキルはこんなものが必要だったのだろう?」と言った。
「全くさようでございますねえ!」とプールが言った。
次に彼らは事務用テーブルの方へ行った。その机の上には、きちんと並べた書類の中に、一通の大きな封筒が一番上にあって、それには博士の筆跡でアッタスン氏の名が書いてあった。弁護士がそれを開封すると、数通の封入書が床に落ちた。第一のは遺言書で、六カ月前に彼が返したのと同一のあの奇妙な条件で作られ、博士の死亡の場合には遺言状となり、失踪の場合には財産贈与証書となるものであった。しかし、エドワード・ハイドという名の代りにゲーブリエル・ジョン・アッタスンという名が書いてあるのを見て、弁護士は言うに言われぬほど驚いた。彼はプールを見、それからまたその証書を見、最後に絨毯の上に横たわっている犯罪者の死体を見た。「頭がぐらぐらする、」と彼が言った。「この男はこのあいだじゅうずっとどうかしていたのだ。この男が僕を好く訳がない。自分の名前を僕の名前に書き換えられているのを見て非常に怒ったはずだ。それだのにこの証書を破り棄てていないのだからね。」
彼は第二の書類を取り上げた。それは博士の筆跡の簡単な手紙で、一番上に日付が書いてあった。「おや、プール!」と弁護士は叫んだ。「博士は生きていたのだ、今日ここにいたのだ。そんな暫くの間に殺されてしまうはずがない、まだ生きているに違いない、逃げたに違いないよ! とすると、なぜ逃げたんだろう?
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