ジーキル博士とハイド氏の怪事件
THE STRANGE CASE OF DR. JEKYLL AND MR. HYDE
スティーヴンスン Stevenson Robert Louis
佐々木直次郎訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紲《きずな》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|隠れる《ハイド》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入

*:注釈記号
 (底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)カインの主義*が好きだよ、
−−

   キャサリン・ディ・マットスに

          ―――――――――――――――
[#ここから7字下げ]

神が結んだ紲《きずな》は解かぬがよい。
わたしたちはやはりあのヒースと風の子でありたい。
ふるさと遠く離れていても、おお、あれもまたあなたとわたしのためだ。
エニシダが、かの北国《きたぐに》に美しく咲き匂うのは。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

     戸口の話

 弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑なぞ決して浮かべたことがなかった。話をする時は冷ややかで、口数も少なく、話下手だった。感情はあまり外に出さなかった。やせていて、背が高く、そっけなくて、陰気だが、それでいて何となく人好きのするところがあった。気らくな会合などでは、とくに口に合った酒が出たりすると、何かしらとても優しいものが彼の眼から輝いた。実際、それは彼の話の中には決して出て来ないものであった。が、食後の顔の無言のシンボルであるその眼にあらわれ、また、ふだんの行いの中には、もっとたびたび、もっとはっきり、あらわれたのであった。彼は自分に対しては厳格で、自分ひとりの時にはジン酒を飲んで、葡萄酒をがまんした。芝居好きなのに、二十年ものあいだ劇場の入口をくぐったこともなかった。しかし他人にはえらく寛大で、人が元気にまかせて遊びまわるのを、さも羨ましげに、驚嘆することもあった。そして、彼らがどんな窮境に陥っている場合でも、とがめるよりは助けることを好んだ。「わたしはカインの主義*が好きだよ、」と、彼はよくこんな妙な言い方をするのだった。「兄弟が自分勝手に落ちぶれてゆくのを見ているだけさ。」こんな工合だから、堕落してゆく人たちには最後まで立派な知人となり、最後までよい感化を与える者となるような立場にたつことは、よくあった。そして、そういう人々に対しても、彼らが彼の事務所へ出入りしている限り、ちっともその態度を変えなかった。
 もちろん、こういう芸当はアッタスン氏にとっては何でもないことであった。というのは、なにしろ感情をあらわさない男だったし、その友人関係でさえも同じような人のよい寛大さに基づいているらしかったので。ただ偶然にできた出来合いの友人だけで満足しているのは内気な人間の特徴であるが、この弁護士の場合もそうであった。彼の友人といえば、血縁の者か、でなければずうっと永い間の知り合いであった。彼の愛情は、常春藤《きずた》のように、時と共に成長したものであって、相手が友人として適当だというわけではなかった。彼の遠縁で、有名な粋人であるリチャード・エンフィールド氏との友情も、むろんそうして出来たものだった。この二人がお互いに何を認めることができたのか、あるいはどんな共通の話題を見出すことができたのかということは、多くの人々にとって解きがたい難問であった。日曜日に二人が散歩しているのに出会った人たちの話によると、二人は口も利かず、ひどくつまらなさそうな顔付きをしていて、誰か知人の姿を見るといかにもほっとしたように声をかけるのが常だということであった。そのくせ、その二人はこの日曜の散歩をとても大事にして、毎週の一番の大切なものと考え、それを欠かさずに楽しむためには、いろんな遊びをとりやめたばかりではなく、しなければならぬ用事までもふり捨てたのであった。
 そんな散歩をしていたある時のこと、二人がなにげなくロンドンのにぎやかな区域の横町を通りかかったことがあった。その横町はせまくて、まあ閑静な方だったが、それでも日曜以外の日には商売が繁盛していた。そこに住んでいる商人たちはみんな景気がよさそうであった。そして、みんなは競ってその上にも景気をよくしようと思い、儲けのあまりを惜しげもなく使って店を飾り立てた。だから、店々は、まるでにこやかな女売子の行列のように、客を招くような様子で道の両側にたち並んでいた。日曜日には、いつもの華やかな美しさも蔽われ、人通りも少なかったが、それでもその横町は、くすんだその付近とくらべると、森の中の火事のように照り映えていた。それに鎧戸は塗り換えたばかりだし、真鍮の標札は十分に磨き立ててあるし、街全体の調子がさっぱりしていて派手なので、すぐに通行人の眼をひき、喜ばせた。
 東へ向って行って左手の、一つの街かどから二軒目のところに、路地の入口があって、街並はくぎられていた。そしてちょうどそこに、気味の悪い一枚の建物が切妻《きりづま》を街路に突き出していた。その建物は二階建で、一階に戸口が一つあるだけ、二階は色のあせた壁だけで、窓は一つもなく、どこを見ても永いことよごれ放題にしてあった跡があった。ベルもノッカーも取付けてない入口の戸は、いたんで変色していた。浮浪人はそのひっこんだ戸口へのそりのそりと入り込んで戸の鏡板でマッチを擦り、子供たちは踏段の上で店を張って遊び、学校の生徒は繰形《くりがた》でナイフの切味を験《ため》したりした。そしてもう三十年近くの間、誰ひとり出て来て、そういう勝手な客たちを追い払ったり、彼らの荒した跡を修繕したりする者もなかった。
 エンフィールド氏と弁護士とは横町のその反対側を歩いていたが、路地の入口の真向いまでやって来ると、エンフィールド氏がステッキを上げて指した。
「あの戸口に気がついたことがありますか?」と彼は尋ねた。そして、相手がうなずくと、彼は言い足した、「あの戸口を見ると僕は妙な話を思い出すのです。」
「なるほど!」とアッタスン氏は言ったが、ちょっと声の調子が変っていた。「で、それはどんなことなのかね?」
「ええ、それはこうなんです、」とエンフィールド氏が答えた。「僕はある遠いところから家へ帰る途中でした。暗い冬の朝の三時頃のことです。その途中は、街灯のほかには全く何一つ見えないところでした。どの通りもどの通りも、人はみんな寝ているし、――どの通りもどの通りも、みんな何かの行列を待っているように明りがついていて、そのくせ教会のようにがらんとしているし、――で、とうとう僕は、人がじいっと聴き耳を立てて巡査の姿でも現われればいいと頻りに思い始める、あの気持になってきました。と突然、二人の人影が見えたのです。一人は小柄な男で、足ばやに東の方へばたばた歩いてゆく。もう一人は八つか九つくらいの女の子で、十字路を一所懸命に走ってきた。で、その二人は当然かどのところでぶっつかってしまいました。するとそのとき恐ろしいことが起こったのですよ。というのは、その男が子供の体を平気で踏みつけて、子供が地べたで泣き叫んでいるのをそのままにして行ってしまうのです。聞いただけでは何でもないようですが、見ていては地獄のようなことでした。それは人間の仕業じゃない。憎らしい鬼か何かのような仕業でした。僕はこら待てっと叫んで、駆け出して行き、その男の襟をひっ掴んで、元のところまで連れ戻ったのですが、そこには泣き叫んでいる子供の周りにもう人だかりがしていました。その男はまるで平然としていて何の手向いもしませんでしたが、ただ僕を一目ぎろりと見た眼付きの気持の悪さときたら、僕は駆足をした時のようにびっしょり汗が出たくらいです。出て来た人たちは女の子の家の者で、間もなく医者もやって来ました。子供はさっきその医者を呼びに行ったのでしたがね。ところで、医者の話では、子供は大したこともなく、ただおびえたのだということでした。で、あなたはこれでこの話はすんだと思ったかも知れません。ところが一つ妙なことがあったのです。僕は例の男を一目見た時からむかつくほど嫌いでした。子供の家の者もやはりそうだったが、それはもちろん当然のことでしょう。だが、僕の驚いたのは医者の場合だったのです。その男は世間なみの平凡な医者で、特に年寄りでも若者でもなく、特別の変った様子もしてもいず、ひどいエディンバラ訛りがあって、嚢笛《ふくろぶえ》のように鈍感な男でした。それがねえ、その男もやはり僕たちほかの者みんなと同じなんです。僕のつかまえている男を見るたびに、そのお医者はそいつを殺してでもやりたい気持になって胸がむかむかして真っ蒼になるのが、僕にはわかったのです。僕が心の中で思っていることが医者にわかったように、医者が心の中で思っていることも僕にはわかりました。でも、殺すなんてできることじゃなし、我々はその次のできるだけのことをしてやりました。我々はその男に言ってやったのです。我々はその事を世間に公表して、君の名前がロンドンの端から端までも鼻つまみになるようにしてやることができるし、またそうしてやるつもりだ。もし君に友人なり信用なりがあるなら、我々は必ずそれをなくさせてやる、とね。そして、我々は猛烈にまくし立てている間じゅう、女たちをできるだけそいつに寄せつけないようにしていました。何しろ女たちは夜叉みたいに猛り立っていたのでね。あんなに憎らしそうな顔の集まっているのを僕は今までに一度も見たことがありません。しかも、あいつはその真ん中に突っ立って、むっとした、せせら笑うような冷ややかな態度をして、――びくついてもいることは僕にはわかったが、――しかし、ねえ、全くサタンのように平気で押し通しているんですよ。奴はこう言ったものです。『もし君たちがこの事を利用しようというのなら、もちろん僕はどうにも仕方がない。紳士なら誰だっていざこざは避けたいのだからね、』とね。『金額を言い給え、』と奴は言いました。で、我々は子供の家の者のために奴から百ポンドせびり取ることにしました。奴は明らかにいやだと頑張りたかったらしいのですが、我々みんなの様子には何となく危害でも加えそうな気勢があったので、とうとう折れてでました。次はその金を受け取ることですが、奴がどこへ我々を連れて行ったと思います? なんと、それがあの戸口のところなんですよ。――鍵をすっと取り出して、中へ入り、やがて、金貨でかれこれ十ポンドばかりと、残額をクーツ銀行宛の小切手にしたのとを持って出て来たんです。その小切手は持参人払いに振出したもので、ある名前が署名してありました。その名前がこの話の要点の一つなんですが、その名前は言えません。が、それはともかく世間によく知られていて、新聞なぞにもよくでる名前なんです。金額は大したものです。が、その署名は、それが偽筆でさえなければ、それ以上の額だって支払うことのできるものでした。僕はその男にずけずけといってやりました。どうも何もかも疑わしいようだ。まともな世間じゃあ、朝の四時なんて時刻に穴蔵みたいなところへ入って行って、百ポンドにも近い大金を他人の小切手で持って出て来る者なんてないよ、とね。けれどもそいつは全く平気の平ざでせせら笑っているのです。『安心し給え。僕は銀行が開くまで君たちと一緒にいて、その小切手を自分で現金に替えてやるから、』と言うのです。そこで我々はみんなで出かけました。医者と、子供の父親と、そいつと、僕とですね。そして僕の部屋で夜明けまで過ごし、翌日、朝食をすますと、連れ立って銀行へ行きました。僕は自分で例の小切手を差出して、どうもこれは偽造だと思うが、と言ったのです。ところがそんなことはちっともないのさ。その小切手は本物だったのです。」
「ちぇっ!」とアッタスン氏が言った。

次へ
全16ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
スティーブンソン ロバート・ルイス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング