て、手紙を書くにいる物をもってきた。生命が危険になっている時のハイドは、私にとっては初めて経験するものであった。烈しい怒りにふるえ、人を苦しめたくてたまらなくて、人殺しをやりかねないほど興奮しているのだ。それでもその男はぬけ目がなかった。非常な意志の努力で怒りを抑え、一通はラニョンに、一通はプールに宛てた、二通の重要な手紙を書きあげ、それが投函されたという実証を受けとりたいために、それを書留にするようにという指図を与えて出した。
 そのあとで、彼は一日中旅館の私室の暖炉にむかって、爪を噛みながら腰かけていた。その室にひとりっきりで、恐怖におびやかされながら食事もしたが、給仕は彼の眼の前ではっきりとびくびくしていた。で、すっかり夜になってしまうと、彼はそこを出て、閉めきった辻馬車の片隅に身をおいて、ロンドンの街路をあちこちと乗りまわした。彼、と私は言う、――私、とはどうにも言うことができないのだ。その地獄の子には人間らしいところは少しもなかった。彼のなかに住んでいるのは恐怖と憎悪だけであった。そして、とうとう、彼は馭者が変に思いはじめたような気がしたので、馬車を捨てて、例の体に合わない衣服を着て人目につく姿のまま、夜の人通りの中へ思いきって歩いて行ったが、その時、この二つの下等な激情は彼のうちに嵐のように荒れ狂っていた。彼は恐怖に駆られて、べちゃくちゃひとりごとを言いながら、人通りの少ない往来をこそこそと通り、まだ夜の十二時までに何分あるかと数えては、足ばやに歩いた。一度などは、一人の女が、マッチを一箱買ってくれというらしく、彼に話しかけた。彼はその女の顔を殴りつけたので、女は逃げていった。
 私がラニョンの家で本当の自分に返ったとき、その旧友の恐怖を見て、多分いくらか心を動かされたかも知れない。が、私は覚えていない。とにかく、その恐怖なぞは、私がそれまでの数時間のことを思い出す時の恐怖に比べれば、大海の一滴に過ぎなかった。私には一つの変化がおこっていた。私を苦しめたのは、もう絞首台の恐怖ではなかった。それはただ、ハイドに変ることの恐れであった。私はラニョンの非難をなかば夢心地で聞いていた。自分の家へ帰って床についたのもなかば夢心地であった。私はその日の疲れの後なのでぐっすりと深く眠ったので、私を悩ますあの悪夢でさえその眠りを破ることができなかった。翌朝、目を覚ましてみると、気力もなく、弱っていたが、しかし気分はさわやかになっていた。私は自分のうちに眠っている獣性をなおも憎み恐れていて、もちろん、前日のあの恐ろしい危険を忘れてはいなかった。だが、私はもう一度家にいるのだ。自分自身の家にいて、自分の薬のすぐ近くにいるのだ。そして、危険をのがれたことに対する感謝がほとんど希望の輝きにも劣らないくらいに、心の中で強く輝いていた。
 朝食のあとで、冷たい空気を気もちよく吸いながら、中庭をゆったりと歩いていると、またもや俄かに変身の先触れであるあの言うに言われぬ感じにおそわれた。そして書斎に逃げこむか逃げこまないかに、私はいま一度ハイドの激情で怒りふるえているのであった。この時にはもとの自分に返るためには二倍の分量の薬が要った。が、悲しいことには! それから六時間後、陰気に炉の火を眺めながら腰かけている時に、例の苦痛がもどってきて、また薬を用いなければならなかった。手みじかに言えば、その日から後は、私がジーキルの姿になっていることができるのは、体操をするような非常な努力によってか、薬の効きめのある間だけのように思われたのであった。昼となく夜となく始終、私はあの変身の前知らせの身ぶるいにおそわれるのであった。ことに、私が眠るか、または椅子にかけたままちょっとうとうとしてさえ、目をさました時には必ずハイドになっていた。この絶えずさし迫っている運命に圧迫され、また実際、人間には不可能と思われるほどの不眠におちいって、私は、自分自身の姿をしていても、興奮のために消耗し尽された人間になり、身も心も力なく衰えて、ただもう自分の分身に対する恐怖という一つの思いだけに心を奪われていた。しかし、眠った時とか、薬の効能が消えてしまった時とかには、私はいきなり、なんの手数もかけずに(なぜなら変身の苦痛は日毎に少なくなってきていたので)、恐怖の幻影に充ちた空想と、理由のない憎悪で沸きたつ心と、荒れくるう生命力とを容れるにしてはそう強くもなさそうな体との持主になってしまうのであった。ハイドのいろいろの能力はジーキルが衰弱するのと並行してますます強くなってくるように思われた。そして、確かにいまやこの二人を仲違いさせている憎悪は両方とも同じように強いものであった。ジーキルの場合には、それは生命の本能からくるものだった。彼は今では、意識現象のある部分を自分と共有していて
前へ 次へ
全38ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
スティーブンソン ロバート・ルイス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング