や。
『町人《ちやうにん》、此《こ》の船《ふね》を何《ど》うするな。』
『御意《ぎよい》にござります。舳《みよし》に据《す》えました其《そ》の五位鷺《ごゐさぎ》が翼《つばさ》を帆《ほ》に張《は》り、嘴《くちばし》を舵《かぢ》に仕《つかまつ》りまして、人手《ひとで》を藉《か》りませず水《みづ》の上《うへ》を渡《わた》りまする。』
と申上《まをしあ》げたて。……なれども唯《たゞ》差置《さしお》いたばかりでは鷺《さぎ》が翼《つばさ》を開《ひら》かぬで、人《ひと》が一人《ひとり》乗《の》る重量《おもみ》で、自然《おのづ》から漕《こ》いで出《で》る。……一体《いつたい》が、天上界《てんじやうかい》の遊山船《ゆさんぶね》に擬《なぞ》らへて、丹精《たんせい》籠《こ》めました細工《さいく》にござるで、御斉眉《おかしづき》の中《なか》から天人《てんにん》のやうな上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じやうらう》御一方《おひとかた》、と望《のぞ》んだげな。
当時《たうじ》飛鳥《とぶとり》も落《お》ちると言《い》ふ、お妾《めかけ》が一人《ひとり》乗《の》つて出《で》たが、船《ふね》の焼出《やけだ》したのは、主《ぬし》が見《み》さしつた通《とほ》りでがす。――其《そ》の妾《めかけ》と言《い》ふのが、祖父殿《おんぢいどん》の許嫁《いひなづけ》で有《あ》つたとも言《い》へば、馴染《なじみ》だとも風説《うはさ》したゞね。
処《ところ》で、綾錦《あやにしき》へ燃《も》えつく時《とき》、祖父殿《おんぢいどん》が手《て》を挙《あ》げて、
『飛込《とびこ》め、助《たす》かる。』
と我鳴《がな》らしつけが、お妾《めかけ》は慌《あは》てもせず、珠《たま》の簪《かんざし》を抜《ぬ》くと、舷《ふなばた》から水中《すゐちう》へ投込《なげこ》んで、颯《さつ》と髪《かみ》の毛《け》を捌《さば》いたと思《おも》へ。……胴《どう》の間《ま》へ突伏《つゝぷ》して動《うご》かぬだ。
裸《はだか》で飛込《とびこ》んだ、侍方《さむらひがた》、船《ふね》に寄《よ》りは寄《よ》つたれども、燃《も》え立《た》つ炎《ほのほ》で手《て》が出《だ》せぬ。漸《やつ》との思《おも》ひで船《ふね》を引《ひつ》くら返《かへ》した時分《じぶん》には、緋鯉《ひごひ》のやうに沈《しづ》んだげな。――これだもの、お前様《めえ
前へ
次へ
全142ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング