》へ姿《すがた》を顕《あら》はす幻《まぼろし》の婦《をんな》に廻向《えかう》を、と頼《たの》まれて、出家《しゆつけ》の役《やく》ぢや、……宵《よひ》から念仏《ねんぶつ》を唱《とな》へて待《ま》つ、と時刻《じこく》が来《き》た。
大沼《おほぬま》の水《みづ》は唯《たゞ》、風《かぜ》にも成《な》らず雨《あめ》にも成《な》らぬ、灰色《はいいろ》の雲《くも》の倒《たふ》れた広《ひろ》い亡体《なきがら》のやうに見《み》えたのが、汀《みぎは》からはじめて、ひた/\と呼吸《いき》をし出《だ》した。ひた/\と言《い》ひ出《だ》した。幽《かすか》にひた/\と鳴出《なりだ》した。
町方《まちかた》、里近《さとちか》の川《かは》は、真夜中《まよなか》に成《な》ると流《ながれ》の音《おと》が留《や》むと言《い》ふが反対《あべこべ》ぢやな。此《こ》の沼《ぬま》は、其時分《そのじぶん》から動《うご》き出《だ》す……呼吸《いき》が全躰《ぜんたい》に通《かよ》ふたら、真中《まんなか》から、むつくと起《お》きて、どつと洪水《こうずゐ》に成《な》りはせぬかと思《おも》ふ物凄《ものすご》さぢや。
と其《そ》の中《なか》に何《なに》やら声《こゑ》がする。』……と坊主《ばうず》が言《い》ひます。」
二十三
其《そ》の声《こゑ》が、五位鷺《ごゐさぎ》の、げつく、げつくとも聞《き》こえれば、狐《きつね》の叫《さけ》ぶやうでもあるし、鼬《いたち》がキチ/\と歯《は》ぎしりする、勘走《かんばし》つたのも交《まざ》つた。然《さ》うかと思《おも》ふと、遠《とほ》い国《くに》から鐘《かね》の音《ね》が響《ひゞ》いて来《く》るか、とも聞取《きゝと》られて、何《なん》となく其処等《そこら》ががや/\し出《だ》す……雑多《ざつた》な声《こゑ》を袋《ふくろ》に入《い》れて、虚空《こくう》から沼《ぬま》の上《うへ》へ、口《くち》を弛《ゆる》めて、わや/\と打撒《ぶちま》けたやうに思《おも》ふと、
『血《ち》を洗《あら》へ、』
『洗《あら》へ』
『人間《にんげん》の血《ち》を洗《あら》へ。』
『笘《しもと》で破《やぶ》つた。』
『鞭《むち》で切《き》つた。』
『爪《つめ》で裂《さ》いた。』
『膚《はだ》を浄《きよ》めろ、』
『浄《きよ》めろ。』
と高《たか》く低《ひく》く、声々《こゑ/″\》に大沼《おほ
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