を思っていられないほどせっぱ詰って目前の小さな自己を抱かねばならない場合もあるのです。人情の真実に徹しない人たちは、このH氏の場合を見て「子の愛の浅い親よ」というでしょう。私はそれに与《く》みすることが出来ません。
 H氏の例は極端なようですが、人間は平生誰れでもこれと類似した生活をしているのです。飢えた者は何よりも先ず食物を求めて、その他のことを後廻しにします。儒教では父母のある間は遠方へ旅行しないということを道徳としています。それだからといって、人は食物中心主義とか孝道中心主義とかに一生の重点を決めてしまう訳には行きません。

 三月の『婦人公論』を読むと、山田わか子女史は、私が屋外の労働や、屋外の女子参政権運動をしないのを咎《とが》めて、それらの実際運動を他の婦人に盛んに奨励しながら、私自身には常に否定しているといわれましたが、私が屋外の労働に服さないのは、それを避けるのでも否定するのでもなく、私には久しく屋内の労働を持っているからです。私は如何なる婦人に対しても、専ら屋外の労働を盛んに奨励した覚えがありません。それと同時に、私にももし屋内の労働がなくなれば屋外の労働に進んで就きます。私は以前から述べている通り、新聞記者とも、事務員とも、女工ともなることを辞しません。また屋外の政治運動にしても、幼年期の子供をすべて小学へ送るようになれば決して辞するものでないことは、早く私の著書の中に明言しています。
 ついでに申し添えます。山田女史は近頃その評論の中で、私に対して頻《しき》りにこういう類の臆断を敢てされるようですが、他人の意見を全部的に評される時には、その人の著書を一通り参照されるだけの用意を持って頂きたいと思います。私が屋外運動をしないということに対し、更に女史が「私は子供が大切で可愛くて、とても家庭を離れる訳にはいかない。けれどお前さんたちはどうでもいいだろう。なぜこぞって屋外労働に従事しないか。なぜ政治運動に飛び出さないかと、晶子《あきこ》氏がいっているように私には思います。そして、何という不人情な事を仰《お》っしゃるだろうと思います」といわれた一節などは、余りに甚だしい無反省な物の言い方でないかと思います。私は母性保護問題について意見を異にしている山田女史とこの上論争する考えを持ちませんが、こういう女史の臆断については女史に対して反問せずにおられません。第一に私が実際運動を「いつも否定している」とは何を証拠にいわれるのでしょうか。次に私は如何なる場合に、すべての婦人にその子女の養育を抛《なげう》ってまで屋外の労働と政治運動とに飛び出すことを奨励したでしょうか。また私の十余年間の著述の何処《どこ》に、婦人に対して「お前さんたちはどうでもいいだろう」というような愛とデリカテとを欠いた「不人情」な気分を持った発言を敢てしたでしょうか。それから「不人情」の一語は何よりも私の全人格を顛覆《てんぷく》せしめるものです。最も同情と礼意のあるべき女子と女子との意見の交換に、女史がこういう言葉を用いられたのは、女史の倫理的意識に省みて疚《やま》しくないだけの御自信があっての事でしょうから、私はそれを立証して頂きたいと思います。あるいはこれは私が「母性の国庫保護説」を主張される女史たちに対して「短見者流」という評語を加えたることに由って憤激されたのかも知れませんが、女史たちの主張が短見であり幻想であることは、一条忠衛氏が本年一月の『六合《りくごう》雑誌』で明晰《めいせき》に論断しておられます。女史たちが一条氏のあの議論をまだ今日まで論破されない限り「短見者流」の評語は不当でないと信じます。
 筆が思わず側道へ入りました。山田女史が右のように私を非難されたのは「与謝野晶子もまた家庭が主で、文筆を持っての社会的奉仕は副産物でないか」といって、女史たちの母性中心説へ引付けられるつもりでしょうが、私も時に或事件に対しては――従来も言っているように――家庭を主とする場合があるのは事実です。即ち「妻は病床に臥《ふ》して子は飢に泣く」というような場合、家庭に大病人がある場合、そうして私の現在のように、大家族を擁して、夫妻ともどもそれの物質的供給に追われると共に、今|暫《しばら》く手の離せない幼年期の子供のある場合がそれです。それだからといって、私は「常に家庭を主とする」という考は少しも持っていません。屋外の運動というような行為に対しては屋内の行為の方を主として考えねばならぬ境遇にいますが、文筆を透して実現する私の生活の上には、決して家庭を主としてはいません。例えば私が人類生活について思索している場合には、私は主として人類生活をしているのです。家庭も、国家も、その他の何事も、その時の重点となっている人類生活を取囲んで有機的に繋《つな》がっているので
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