等
それで私どもは何よりも智力の優強者とならねばなりません。私どもが男子と対等の位地に進みたいと主張するのも一概に男子と職業を同じくしよう、その実力もないのに男子と政治上や民法上の同権を得ようという意味ではなく、先ず智力において対等の強さを得ようとするのです。これは婦人が物質的から精神的に進み、依頼主義を取って男子の足手まといになっていた者が一人前の独立を遂げようとするので、男子の側から考えて頂いても真の伴侶が出来ることですから当然歓迎さるべき性質のものだと思います。私どもは男子側が私どもの希望を容れて高い智力の教養を許されるなら、決して男子に反抗するような不遜《ふそん》な態度を取ろうとする者ではありません。私どもは今日の場合、智力においても何においても明かに男子の優越を認めて、私ども婦人が遙《はるか》に劣弱な位地にあることを愧《は》じ、敬虔《けいけん》な心から事ごとに男子の教に聞いて、大急ぎで男子と対等な処まで智力の充実を計りたいと思っています。男女の智力の不権衡が人生の調子をどれだけ狂わせているか知れないことに気が附いている聡明な男子、真の聡明な男子ならきっと私どもに対し厚意の助勢を惜まれないだろうと信じます。
婦人と大学教育
この意味において私どもは大隈《おおくま》内閣の文部省が女子大学の必要を公認したことを感謝します。またなるべくどの男子の大学でも婦人の聴講生を許すに至ることを希望します。また世の父兄が高等女学校|乃至《ないし》現在の女子大学程度の授業を以て女子に高等教育を授けたかの如く誤解されないように希望します。男子の大学とても皆が皆今の状態では高等の智力を鍛える処とは限っておりませんが、まして高等女学校は夐《はる》かに男子の中学に及ばず、女子大学は到底男子の高等学校に比較しがたいものです。それらの卒業程度を以て父兄が女子の高等教育を打切るのも早計ですし、それらの卒業生の社会に出た後の成績を以て女子の高等教育を是非するのも軽率です。しかし如何に高級な女子大学が多数に設けられ、男子の大学が女子の共学を許すにしても、現在の家庭の経済事情と現在の女子の知識状態では大学教育まで受け得る婦人が極めて少数であることは明白です。また女子の高等教育を一般に是認させる必要から特に大学教育を云云《うんぬん》しますけれど、智力の充実は必ず大学教育に限った訳でもありませんから、日本人はこの意味をよく領解して大学過重の弊に陥らないようにし、父兄と女子自身との心掛次第で如何なる高度の智力でも修養し得るものであることを知って、女学生は勿論、既に人の妻たり母たる生活に入った若い婦人までが、読書と社会的接触とに由って出来るだけ各自の智力を高くかつ博《ひろ》くするように努力して欲しいと思います。
私の言う智力とは学識の量をいうので無く、物事に対する理解力を意味するのです。学識の量をいうのなら到底専門学者に及ばない訳ですが、理解力は学者的態度を取るに及ばず、実際生活の直接経験と書物に現れた学者先覚者の議論の過程及び結論とを以て常に自分の常識を新しく補充しながら、何事に対しても部分に偏せず、表面に停滞せず、全体と核心とに正しく透徹した理解味到を持とうと注意さえすれば自然に花の綻《ほころ》ぶように内から開けて来る直覚作用です。
婦人と読物
私の度度《たびたび》述べることですが、特に「女の読物」として書かれた低級な物ばかりを読むのは、大人が子供のお伽話《とぎばなし》を読み耽《ふけ》るのと同じく、自分をわざわざ低能化しつつあるのだと思います。私どもは婦人に関する或特殊の必要な書物の外はなるたけ男の読物を読む習慣を附けて、現代人として知るべきことを男と対等に知識しようと努力せねばなりません。女の間に歓迎される種種の婦人雑誌などはいずれも女の感情に媚《こ》びて編輯された甘たるい分子が多く、男の世界では既に常識になっているほどの科学的及び社会的知識すら供給しない物です。私どもは最早娯楽のために物を読むような呑気《のんき》な生活をしていられないのですから、出来るだけ自分の力以上の読物を研究的に読もうと心掛けねばなりません。
今日では教育があるといわれる若い婦人さえ若い男子の読む十分の一の読書をもしない有様です。近頃の新聞や男子の読む雑誌にはかなり有益な学説が掲載され、また現代人として真面目《まじめ》に考えて見ねばならぬ個人及び社会の問題がいくつも記載されているのですけれど、婦人はそういう太切な点に目を着けず、唯《た》だ自分に解りやすい感情的凡俗的の記事ばかりを愛読しております。それですから男子の前で話が少しでも智力を要する問題に及ぶと厚顔《あつか》ましく支離滅裂な冗弁を並べるか、謙遜して口を噤《つぐ》んでしまうかの外ありません。偶《たまた》ま若い婦人で思想論などをする知名な人があっても、それが多くは婦人の発言である所から世の注意を惹《ひ》くだけで、大抵の男子には出来る議論であり、男子の議論としてなら一顧の価もない程度のものなんです。例えば日本民族の将来とか、日本政界の近状とかいうことを質問されて、即座に一応の論理と実感味とを備えた明快な解答の出来る婦人が幾人あるでしょう。この一事でも婦人が国民としてまたは社会の一員としての生活に平生何の省慮も持っていないことが明白です。またそういう公人的の問題でなくて、現に母として子を教育している人に「教育の目的」を問い久しく妻たる境遇にある人に「結婚の意義」を問うた場合、人前に出せるだけの情理を一貫した意見を述べ得る婦人が幾人あるでしょう。婦人自身に最も切実なそういう問題に対してさえ一定の見識がなく、それについて是非解決せねばならぬほどの強烈な疑惑煩悶もないのが我我婦人の実状です。
読書と家政
婦人に読書を勧めることに対して、婦人を家政から遠ざからしめるものだとの批難があるかも知れませんが、近頃米国で婦人の参政権を許した各州の成績を男子側から公式に報告せられた所では、どの州の婦人も一斉に予期以上の良好な成績を挙げていて、家政を疎《おろそ》かにした婦人は選挙の時にさえ一人もなかったといいます。智力の優った米国婦人の行為を私どもが一足飛びに学ぶことは困難でしょうが、屋外行動の伴う政治に関係するのでなく、私どもは家庭内にあって読書の時間を得ようとするのですから、心掛次第で十分家事と並行させることが出来ると確信しています。日本婦人の平生は家政以外のくだらない事で随分だらだらと無駄な時間を費しています。その家政というのも少し努力すれば簡易に済ますことの出来る余地がいくらもあります。また茶の湯とか、挿花《そうか》とか、遊芸とかの稽古事《けいこごと》で過当な時間と精力を費しているのも非現代的だと考えます。私どもは倫敦《ロンドン》の婦人が少しの暇さえあれば家庭でも電車の中でも書物を披《ひら》いている熱心と聡明とを学ばねばなりません。
それから私ども婦人の互に戒めねばならぬことは、どんなに読書をしても、またどんな物事に理解が出来初めても、それを誇るべきことのように思ってはならないことです。私どもはあくまでも謙譲と慎重とで終始しなくてはなりません。さなきだに婦人の性情には少し学問でもすると半可通《はんかつう》を振廻したがる悪習が潜んでおります。そういう女性の悪習を一掃することも私どもが智力を養う理由の一つであることを自覚して掛りたいと思います。仏蘭西《フランス》未来派のサンポワン女史が三、四年来、婦人自ら内にある女性を絶滅せねばならぬと叫んでいるのも、女性の一切を不純不良な物として誇張した嫌《きらい》はありますが、婦人がとかく見て見ぬ振《ふり》をしていた自分の最大欠点を暴露してそれを絶滅しようとする誠意と勇気とは私どもの学ぶべき所です。
高度の智力は婦人をして自重と謙譲と貞淑との必要を明かに理解させますから、家庭及び社会がその程度にまで婦人みずから教育しようとする気風を奨励擁護して頂きたいと思います。その程度にまで達しない粗末至極な教育を施して置きながら、学問が一概に婦人を生意気にし徳操的に堕落させる物のように臆断する世人の多いのは心外です。低級な学問をした者が軽挙妄動し諸種の誘惑に身を誤りやすいのは男も同じ事でしょう。婦人の智力の向上は婦人自身の発奮が何より太切ですけれど、周囲もまた男女に由って教育の待遇を分つ悪習を自ら反省して頂かねばなりません。(一九一五年十二月)
[#下げて、地より1字あきで](『大阪毎日新聞』一九一六年一月一日)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人及び女として」天弦堂書房
1916(大正5)年4月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年1月10日公開
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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