とは考えません。私はそれを、あるいは私の個性の自発を促した機縁として述べるか、あるいは私の議論の旁証《ぼうしょう》として述べるかに過ぎないのです。個性の尊厳を保って第一義の生活をしようと心掛ける者には、常に自ら世界の中心となって、何程かの文化価値を、自らの立場と、自らの天分との能《よ》くする限りにおいて創造しようと努力します。その人は世界の大勢に対して常に敏感ですが、それを批判し取捨して自己の所有とするには、常に出来る限りの沈着と聡明とを失いません。雷同や模倣に由って普通選挙を主張するように解釈する者は、軽浮なる自己を推して他人を忖度《そんたく》するものだと思います。
 それなら、普通選挙はどういう理由から個人の自発的要求として主張されるのですか。これに関する細論で最も参考となるものには、最近に佐藤丑次郎《さとううしじろう》博士が公にされた選挙権拡張論がありますから、私は唯だ茲《ここ》に根本となる理由だけを述べて私の意見を加えようと思います。
 人間は動物の如く単に「生きる」というものでなくて「より善く生きよう」とする所に特長があります。悠久な昔において、人間が自然の法則に引きずられて専ら種族の保存と生理的欲望の満足とに終始する動物的生活を脱し、人為の理想と努力とに依って現に見るような燦爛《さんらん》とした、複雑な文化生活を創造するに到ったことは、如何にも万物の霊長として自負するに足ることだと思います。既に人間の生活が創造に創造を重ねて文化の内容を充実し、それを以て自他の幸福を増進する所に第一の価値を置くものであるとすれば、生活に要するあらゆる条件は、すべてこの第一の価値を実現する過程以外の何物であってもならないのは当然です。
 創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です。この能力は個人のものです。個性的のものです。多数はこれを助長し、併せてこれを受容し、これと同化する作用はあっても、多数が或一つの新しい文化内容を創造するということは、厳格なる意味において全く不可能なことだと思われます。
 人格の中心となるものは実にこの創造能力を推《お》さねばなりません。もしこれを欠くならば、人は模倣同化の消極的生活にのみ終始して、自己の生存を主張する理由が薄弱になります。この創造能力を用いて、自存、自労、自活、自営の生活を建設してこそ初めて堅実な積極的の文化生
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング