へんい》させて考えることを欲しません。私が賢母良妻主義に反対するのも一つは同じ理由からです。勿論父たり母たることに人生の重要な内容の一つとして相対的の価値を認めることは何人《なんぴと》にも譲らないつもりでおります。しかし必ずしも「婦人が母たることに由って」特に最上の幸福を実現し得るものとは決して考えておりません。人間はその素質と境遇とそれらを改造する努力とに由って為《な》し得る限りの道徳生活を建設することが最上の幸福であると信じております。もし平塚さんの主張の通りにすれば、エレン・ケイ女史が人の妻ともならず、人の母ともならずに、著述家を以て一生を送りつつある如きことは、平塚さんのいわゆる「個人的存在の域」を脱しない不幸な婦人といわねばならないことになるでしょう。
 私は平塚さんとは異った立場から、固《もと》より正当に母性を尊重します。さればこそ、女性の尊厳を維持しつつ、出来るだけ順当な母性の実現を期するためにも、私は女子の経済的に独立することが必要であると述べているのです。これについては一条忠衛《いちじょうただえ》さんが近刊の『六合《りくごう》雑誌』で「夫婦の扶養義務について」と題して書かれた所と全く同感です。一条さんは学者としての研究的態度から、その議論が周到深切を極めております。その一節に「けだし人間が男女に分れているのは分業であって、その第一の目的は生殖的個性の発揮であり、第二の目的は精神的個性の発揮であって、この二つを兼ねて、男子は男子として、女子は女子として、その特殊的境遇の中に普遍的な人格を完成しなければならぬ者である。而して夫婦なる者は、実にこの分業を道徳的に誓約した至誠的和合であるから、その経済的生活に関しては協同的のものであって、主従の関係でなく、相本位的に同一の目的の下に、婚姻より生ずる一切の経済的費用を相互で自弁しなければならぬ関係者である。夫が妻を養うのでもなく、妻が夫を養うのでもなく、自ら自己を養いながら互に互を養う自他一体の有機的な経済的生活者である。……要するに、経済に関する夫婦間の生活費用は、扶養義務の形式において夫婦の共同生活を完成するための諸費であるから、その共同生活に必要なだけの費用を得ることに関しては夫婦は偕《とも》に生産者となり、労働者となってそれを負担すべき義務者であり、一方にのみこの重荷を負わせる訳には行かない」といわれ
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