たこともありましたが、西村氏は、その研究所の一部の事業として、先ず芸術的な自由教育の学校を興す決心をされたのです。
 西村氏からこの事の相談を最初に受けたのは石井柏亭《いしいはくてい》氏と私とでした。画家である石井氏、詩人である私、この二人に対して、西村氏はその学校の実際の責任者となることを求められたのでした。私たちがそういう教育の重任に就くということは、言うまでもなく、社会の常識から見て突飛であるでしょう。西村氏はそれほど思い切った教育上の改革意見を齎《もた》らして私たちを驚かされたのでした。この事は私たちにも突然でしたが、石井氏にも私にも久しい間の親友である西村氏から相談を受けて見ると、三人が、一般の教育について、朧気《おぼろげ》ながら持っている平生の意見が期せずして一致し、話せば話すほど、実行方法の細部にわたる点までが同感であるのを発見しました。それで石井氏も快く進んでこの重任を引受けられ、私も喜んで石井、西村両氏の驥尾《きび》に附くことを承諾するに致りました。なお、学界と芸術界とにおける多数の先輩と諸友とが、私たち三人の事業を連帯して助成して下さることになりましたから、私はみず
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