な打算を超えた、高い、清い、正しい境地において、自分みずからそれを楽むことが出来ます。その愛は芸術家的の愛です。人をも自然をも、自分の内に取入れて、我と一体として愛することが出来ます。これが真の人間性に目覚《めざ》めた人間というものです。それらの人間から、天分に由って、専門の文学者、画家、音楽家となる女子も出るでしょう。また専門の科学者となる女子も出るでしょう。また職業婦人として経済的に独立する女子、家庭に入って愛と聡明とに富んだ新時代の妻となり母となる女子も出るでしょう。また学界に、政界に、社会改造運動に、男子と並んで活動する女子も出るでしょう。また社会の視聴を一身に集めることなく、勤労に堪え、隣人のために計り、自然を楽んで穏健な一生を送るような女子も出るでしょう。
 一つの個性に一つの新しい文化的な生活が順当に開展されて行くこと、これが私たちの希望です。
 これ以上に狭く考えて、人間性の自由なる発動を予定したく思いません。

       *

 毎年三、四十人を出ない少数の女生徒を募集して、特別な高等自由教育を施すという事は、偏頗な行為のようですけれども、個人の仕事である以上、やむをえないことだと思います。一般にわたる多数の子女教育を思わないのではありませんが、それは自分たちの力で及ばない所です。私たちは自分の手の届く範囲で微力を尽すのでなければ、社会の何事にも関係する機会がなくて終るでしょう。三、四十人の教育でも、それをしないには勝ると思います。また数年の後に三、四十人ずつの卒業生を毎年出すとすれば、その三、四十人は優良な種子を社会に播《ま》くようなものです。その種子が更に幾倍かの好い種子を生むに到るでしょう。
 学校教育に無経験な私たちの事業は、みずから法外な冒険を敢てするものであることを思い、前途の多難を覚悟しています。今は教育界においても、社会においても、従来の教育に不満を感じている炯眼《けいがん》達識の人々が沢山にある時です。たまたま私たちのような人間が飛び出して、重苦しい教育界の空気を破るために、こういう芸術的な自由教育を試みるに到ったことも、それらの人々から寛容と同情とを以て許して頂けることであろうと思います。
 以上は、粗雑な走り書きで私だけの意見を述べたのです。文化学院の教育方針については石井、西村二氏の御意見が学院の規則と共に発表されるのを御覧下さい。(一九二一年一月)
[#地より1字上げ](『太陽』一九二一年一月)



底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人間礼拝」天佑社
   1921(大正10)年3月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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