十八圓出さなければ成らないと云はれた時私は胸を轟かした。三圓三十五錢はもうワルシヤワの手前で拂つたのである。莫斯科で朴氏にした禮と馬車代とを使つた後で、佛貨や獨逸の錢を交ぜても二十五圓足らずより持合せがない。間違ではないかと云つて見たが何うしても二十八圓要ると云ふ。不愉快な思ひをして食堂へ出る事はしないでも好いから其れは食べない事にするとしても、何うも巴里迄は行けさうにない。かうなると何處で降ろされるかも知れないと思ふので少しでも遠い距離に伴れて行かれたい心で汽車の走るのが嬉しい。考へ拔いた揚句今夜私は伯林《ベルリン》で降りるとボオイに云つたが不可《いけ》ないと云ふ。何うしても伯林で降りるのだと云つても頑として不可ないと云ふ。荷物の關税の關係などの事でさう云ふのである。私は伯林の松下旅館で一晩泊つて翌日普通の二等車にさへ乘れば樂に巴里へ着かれると思ふのであるが、其れが出來ない事なら何うすれば好いかと、向ふ任せの氣にもなれないで胸を痛めて居た。もうアレキサンドロ※[#濁点付き片仮名ヲ、1−7−85]ウに來て居るのである。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横濱の英人が運動に歩いて居る。倫敦《ロンドン》行の汽車は別のかと思つて居たのであるが、前と後になつて居る丈で未だ兩方繋がつて居る事に此時初めて氣が附いた。私は其人の傍へ下りて行つて伯林で降りる事をもう一度交渉して見て下さいと頼んだ。紳士は直ぐ來て呉れてボオイにさう云つて呉れたが矢張《やはり》駄目だと云ふ。一日位は好いではないかと云つても好くないと云ふ。私が途方に暮れて居るのを見て紳士は私に、あなたが金の事で心配するのなら何程でも私が出して上ると云つて呉れた。二十圓もあれば好いでせうと云つて私を自身の室へ伴れて行つて二人の令孃に紹介した。私は思ひ掛けない事に遇つて感極まつて涙が零れた。用意に三十圓もお持ちなさいと云つて露貨で出して呉れた。此人の名はマリウス・レツセル氏である。露西亞の役人が旅行券を返しに來たが、令孃が「ヨサノ」と云つて私のも受取つて呉れた。私は今日は晝も夜も何も食べなかつた。獨逸の國境でボオイは私を伴れて行つて十五圓程の増切符を買はせた。マウリス氏は此時も其影を見て又何か事が起つたかと降りて來て呉れた。税關吏は鞄の中は見なかつた。私が心配しながら通つた波蘭《ポオランド》から掛けて獨逸《ドイツ》の野は赤い八重櫻の盛りであつた。一重のはもう皆散つた後である。藤の花蔭に長い籐椅子に倚つて居る白衣の獨逸婦人などを美しく思つて過ぎた。伯林へ着く前に私は寢臺を作らせて寢た。十九日の朝|佛蘭西《フランス》の國境で汽車賃を十圓追加された。ボオイの獨逸人が物柔かな佛人に代つて初めて私は悠《ゆる》やかな氣分になつた。茶とパンを室へ運ばして食べた。昨日から餘程神經衰弱が甚だしくなつて居るので、少し大きな街、大きな停車場を見ると何とも知れない壓迫を感じるので、私は成るべく外を見ない樣にして居た。窓掛の間から野性の雛芥子《ひなげし》の燃える樣な緋《ひ》の色が見える。四時と云ふのに一分の違ひも無しに巴里の北の停車場《ギヤアル》に着いた。プラツト・フオオムには良人の外に二人の日本畫家と二人の巴里人とが私を待つて居て呉れた。(五月十九日)



底本:「定本 與謝野晶子全集 第二十卷 評論感想集七」講談社
   1981(昭和56)年4月10日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:今井忠夫
2003年12月15日作成
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