近日から自分が此畫室へ油畫の稽古に通はして貰ふ約束などをして、氏と別れてリユクサンブル公園へ入つた。そして、その近くのレスタウランで夕食《ゆうげ》を濟して、また公園へ歸つて來た。一人一人に變化のある、そして氣の利いた點の共通である巴里婦人の服裝を樹蔭の椅子で眺めながら、セエヌ河に煙花《はなび》の上る時の近づくのを待つて居た。七時半頃になつて街へ出たが、まだ飾瓦斯も飾提灯の灯もちらほらよりついて居ない。サン・ミツセルの通に竝んだ露店が皆ぶん廻し風の賭物遊びの店であるのに自分は少し情けない氣がした。河岸へ出るともう煙花の見物人が續續と立て込んで居る。警固の兵士が下士に伴れられて二間おきぐらゐに配置されて立つて居た。河下へ向いて自分等は歩いて居るのである。晝間歩いた向河岸に當る邊は見物するのに好い場所と見えて、人が多い。今夜は橋の上を通る人に立留ることを許されない。また遊覽船を除いた外の船は皆岸に繋がれて居た。振返つて見ると高臺にはもう灯が多くついて瞬間に火の都となつた樣に思はれる。自分等はルウヴル宮の横の橋を渡つて北岸で見物する事にしたが、待つて居るのに丁度程よい場所がない。ふと橋の下から掛けて左右に荷揚場の石だたみが廣く河に突き出て造られてあるのに氣が附いて、良人は其處へ降りようと言つた。降り口の石段が二處に附いて居る。降りて見ると下にはまだ見物人が四五人より來て居ない。併し此處にも兵士が三人許り警固に置かれてあつた。何故だか橋を境にして左の方へは行くことを許されない。水際の石崖に腰を下すと、涼しくて、そして悲しい樣な河風が頬を吹く。十分二十分と經つ中に河岸の上の人數が次第に殖え、自分達の場所を目掛けて降りて來る人も多くなつて行く。積んだ材木の上に初めは腰を掛けて居たのが、何時の間にか其上に上つて坐る人の出來る事なども、東京の夏の夜の河岸の風情と同じ樣である。兩國の川開きであるなどと、自分は興じて良人に言つて居た。九時半頃に、それは極く小さい煙花の一つがノオトル・ダムのお寺の上かと思ふ空に上つた。風でも引いては成らないからもう歸らうと良人が言つて、十時頃に三四發續いて上るのを見てから河岸の上へ上つた。丁度さうした頃から華美な大きい煙花が少しの休みもなしに三ヶ所程から上るやうになつたのである。自分等はまたルウヴル宮の橋の袂《たもと》の人込に交つて空を仰いで居た。四種か五種の變化より無くて、日本のに比べては技巧の拙いことを思はせるのであるが、滿一時間少時も休む間無しに打上げられる壯觀は、煙花は消えるもの、樂しさとはかなさとを續いて思はせるものだなどとは、夢にも思はれない華美な珍らしい感を與へられるのであつた。二十分程のうちに其後の空に火の色の雲が出來た。最終のは殊に大きく長く續いてセエヌ河も亦火の河になるかと思はれる程であつた。今夜は辻待の自動車や馬車が大方休んで居て偶にあつても平生の四倍ぐらゐの價を云ふので、自分等は其處からゆるゆると※[#「井に濁点」、564−16]クトル・マツセの下宿まで歩いて歸つた。途中の街々のイルミナシヨンの中ではオペラの前の王冠が一番好いと思つた。寢臺へ疲れた身體を横たへ乍ら、街街の廣場の俄拵への囃し場で奏して居る音樂に伴れて多數の男女が一對の團を作り乍ら樂しさうに踊つて居た事などを思つて、微笑んで居た。門涼みをして居る人達までもじつとしては居られない氣持になつて、暗がりに手を擴げて踊る振をして居た事なども思ひ出された。女中のマリイは曉方の四時に歸つたと、次の日に話して居た。(七月十五日)



底本:「定本 與謝野晶子全集 第二十卷 評論感想集七」講談社
   1981(昭和56)年4月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:今井忠夫
2003年12月15日作成
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