い程度の異性に對する淡《あは》い愛情も一切不貞不純の事實になります。さうして結婚前に何人の心的經驗にも此種の不貞不純を絶對に犯さないで居られるものでせうか。
人が山中に孤棲でもして全く社會と隔離しない限り、かう云ふ意味に於ての貞操道徳を破らない者は一人も無い譯でありませんか。貞操が精神的のものであるなら其處まで徹底して考へねばならないと思ひますが、道徳が果してさう云ふ内心の機微までを制裁することが出來るでせうか。
其處までは追窮しないでもよい、貞操は結婚した男女の間に守る道徳であると云ふなら、結婚するまでの不品行などは一切寛假されることになるでせう。肉體的には關係したが、精神的には相許したのではないと云へば少しも貞操道徳に背いた人でなくなるでせう。
世間には夫婦として性交を續けながら精神的に冷淡な男女や、また性交も無く精神的にも憎み合ひながら夫婦として同居して居る男女が多數にあつて、其等は明かに精神的の貞操を破つて居る男女である筈ですが、不思議にも貞操道徳はそれを不貞の男女として咎めないのみならず、表面さへ夫婦生活を一生續けて行けば却て貞婦のやうに目されて居るのは何う云ふ譯でせう。
若し肉體的のものとするなら、男も女も絶對に再婚してはならないことになるでせう。のみならず、女が他から暴力で身を汚されても、男が女の誘惑に由つて一時的の性交を遂げても、もう其男女の貞操は破壞されたことになつて、一生結婚は出來ないでせう。親兄弟のためとか、其他一身一家の餘儀ない事情のためとかで娼婦の境遇に在つた女などは永久に背徳者として泣かねばならないでせう。精神的に悔ゆる者は其罪が除かれると云ふやうな美くしい感情は背徳者を曲庇するものとして許されないことになるでせう。また肉體さへ一人の異性を守つて居れば、愛情は他の異性に向つて居ても差支ないと云ふやうな矛盾したことにもなるでせう。
之に反して、貞操は靈肉一致のものとするなら、さう云ふ道徳が現在の社會制度のままで實現されるでせうか。精神的にも肉體的にも唯一を守る結婚と云ふものは戀愛結婚以外には遂げられない譯ですが、戀愛の自由を許されて居ないと共に、戀愛の自由を享得するだけの人格教育が施されて居ない現代に、靈肉一致の貞操を道徳として期待することは蒔かずに刈らうとする類ではありませんか。
現代の結婚は太抵の場合男女の一方が一種の奴隸となり、一種の物質となつて、一方に買はれて居る状態です。男が富家の聟となることの外は、女の方が衣食の保障を得るために一種の賣淫を男に向つて行つて居るのが現在の結婚です。かう云ふ結婚から成立つた夫婦に向つて靈肉一致の貞操を期待するのは夫婦の何れに向つても苦痛を與へ、虚僞を強ひるものではないでせうか。
現在ではまだ奇蹟のやうに思はれて居る戀愛結婚が生活理想の急轉に由つて遍く實行される時代が遠からず來るとしても、人の心は固定して居ないのですから、其戀愛が自然に解體する機會が生じないとも限りません。熱烈な愛情の上に結ばれた夫婦生活が必しも永久に一致を續けて居なかつた例は昔から少くないことです。さうすれば戀愛結婚もまた貞操道徳の巣では無いやうに思はれます。
貞操に對する私の疑惑は大體右の通りです。
道徳は如何なる場合にも矛盾のないものでなくてはなりません。また努力してそれを實踐することに多少の苦痛は伴つて居ても、其苦痛に勝るだけの快感を持ち來すものでなくてはなりません。なぜなら私達の要求して居る今後の道徳が、人間各自の生活をより眞實に、より自由に、より正確に、より幸福にするための自制律であるからです。それゆゑに社會から之を個人に強要することも許されるのです。
併し貞操道徳を徹底的に實踐しようとすると、まだ貞操道徳の解釋が前述のやうに明確になつて居らず、瞹眛な解釋のままで實踐しようとすれば幾多の矛盾が生じて徹底的であることが不可能になります。
再婚者も、また曾て性交を二三にした人も、甚しきは曾て醜業婦であつた人達も、現在の良人に對して唯一の愛情さへ捧げて居れば、過去に於ける他の異性との愛情も性交も現在の貞操を汚す所以でないと云ふ風に解釋されて居る夫婦生活が一方にあるかと思へば、結婚前に一たび性交を經驗した女は、それが異性から誘惑されたのであると、暴力で犯されたのであると、自から招いたのであるとに論なく、貞操的に汚れた女として峻烈に責められる風が一方に勢力を張つて居ます。
それなら男も結婚前に性交を經驗した者は不貞を以て問はれるかと云ふと、斯樣な質問をするのが非常識である程それは全く道徳上の問題となつて居りません。男は結婚後と雖も他の異性を抱擁することを公認されて居ります。男には貞操道徳の自發的要求も社會的強要も行はれて居ないのです。その反對に女は一旦妻とな
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