つた以上、良人との愛情の交感がなくても、唯だ良人との抱擁さへ續けて居ればそれが貞婦であつて、さう云ふ意味の貞婦たることを社會から強要されて居ります。甚しきは愛情も性交も斷えて居て、それに由來する絶大の苦悶を續けながら、幾十年の間良人と同棲して家政を取り、小兒を養育して居ると云ふ女が貞婦として稱讃され、或は愛情は他の男に向つて居ながら性交を良人以外に許さないと云ふだけで、貞操ある妻として世間から目されて居ると云ふやうな事實が無數にあります。

 貞操は女にのみ守ることが出來る道徳で、男には生理的關係がそれを許さないと云ふやうなことも聞きます。男に守れないと云ふことは貞操が人間共通のものであるべき道徳としての資質を最初から備へて居ない一證ではないでせうか。
 若し生理的關係を云ふなら、女にも性欲衝動のために危險な時期がないとは云へないでせう。また生理的關係ばかりでなく、男も女も愛情のためからは勿論、再婚して新しい境遇を開くと云ふやうな關係から却つて處女として寡婦としての貞操を守らない方が幸福な場合も現に多いのです。

 如何なる場合にも一律に實踐しようとすると幾多の矛盾が生じます。實際生活と矛盾するのはそれが道徳として現代の人を律するだけの正確な基礎を持つて居ないからではないでせうか。其矛盾を補綴するために幾多の除外例を設けて、結婚前の不純不貞は問題ではない、再婚後の靈肉の純貞を要求するのであると云ひ、或は戀愛結婚は理想であるが、愛情のない夫婦生活の持續も貞操の一種として強要せねばならぬと云ふ風であれば、貞操道徳の内容ほど不純、不正、不自由、不安なものは無く、私達の生活を裏切つて不幸に導く在來の壓制道徳から一歩も出て居ないものになります。私達はさう云ふ瞹眛なものを安心して自分の生活の自制律にしたくありません。
 私達はまた在來の意味での結婚其物を疑つて居ます。儀式、同棲、戸籍上の屆出と云ふやうな形式關係に重きを置かれる結婚にどれ丈の權威があるでせうか。結婚の前後を以て貞操を區劃し、結婚以前の不品行を寛假するのも道理のないことであり、結婚さへ續けて居れば貞操の全《まつた》いものであるとすることも形式的な解釋です。
 また今日までの社會では結婚して同じ家に住むことが出來ましたけれど、今後は經濟上または其他の事情から戸籍上の屆もせず、同じ家にも住まないで夫婦關係を結ぶ男女が次
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