識者から示されるので無くては、貞操を現代の道徳として肯定することが出來ないと言ふ意味も、要するに眞實の道徳を建設して私達の道徳性を何物にも動搖されること無しに生きて行きたいと思ふからです。貞操を最も現代的に道徳として擁護したいからです。

 貞操の起原や歴史に就て私達は深く研究する必要を感じて居りません。どうでもいい事だと思つて居ます。私達の知らうとする所は貞操に對する現代人の聰明な解釋と眞率な實行とです。
 私の持つて居る疑惑の幾つかを順序無しに次に述べて見ませう。

 貞操は女のみに必要な道徳でせうか。貞操は男にも女にも必要な道徳でせうか。
 貞操は道徳としてどんな場合にも人間が守らねばならぬものでせうか。またどんな場合にも守り得られるものでせうか。
 其人の境遇體質などの關係に由つて守り得る場合と守り得ない場合とがありはしませんか。また甲の人に守ることが出來ても、乙の人には守ることが出來ないと云ふやうなことがありはしませんか。何人にもそれを強要して守らせることが出來るのでせうか。
 どんな場合にもそれを守ることが屹度人間生活をより眞實に、より自由に、より正確に、より幸福にするものでせうか。

 私達の人間生活の持續と發展とに矛盾なくして役立つものなら新しい道徳として歡迎したいと思ひます。若し女には守らさねばならぬが、男には寛假されると云ふやうな矛盾のあるものなら、それは人間生活を破綻失調させる舊式道徳であつて、私達の信頼することの出來ないものだと思ひます。
 また何人にも遍く強要することが出來ず、其人の境遇、體質等に由つて寛嚴の差があり、それを一律に何人にも強要しては却て大多數の人間が虚僞と、壓制と、不正と不幸とに泣かねばならぬと云ふやうなものなら、其れは私達の要求して居る新しい道徳として見ることが出來ません。

 貞操は精神的のものですか、肉體的のものですか、愛情のものですか、性交のものですか、また精神的であると同時に肉體的のもの、謂ゆる靈肉一致的のものですか、かう云ふ區別もまだ鮮明になつて居ませんやうに思はれます。
 若し精神的のものだと云ふなら、他の婦を見て情を動かしたものは既に姦淫を犯したものだと云ふ論法通り、或男が或女を見、或女が或男を見て愛情を動かしたことは悉く精神的に純貞を破つたものになります。片戀と言ふのも、失戀と言ふのも、また其れまでに達しな
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