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懲《こ》らしめて肉を打ちつつ過《あやま》ちて魂《たましひ》をさへ砕きつるかな
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 放埒《はうらつ》であつた前日の非を贖《あがな》へとばかり極端に自己を呵責《かしやく》して、身に出来るだけの禁欲を続けて来たことは誤りであつた。肉体に加へた罰から精神までも哀れに萎縮してしまつた。是れは全く予期せぬことであつたと作者は云ふ。
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寂しさよこの頃おつる髪を見て作り笑ひもことにこそよれ
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 寂しい事実である。何がさうかと云ふと、額の方を広くばかりして抜け落ちて行く髪の毛を目に見て、滑稽だなどとも云つて人に笑つて見せて居る自分が情けなく寂しいのである。心にもなく人に笑つて見せることはあつても是れは余りであつて、自分を醜くするこのことに反省がされると云ふ歌。
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はしたなく縁《ふち》の取れたる鏡などあらはに見ゆる我が家の秋
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 縁が無くなつて裏もはげた中身だけの醜い感じのする鏡、其れがうら寒い秋にうら寒いものの目に附き易くて自分を傷《いた》ましめることの多い此頃であると云ふのである。
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女達鏡の間《ま》より裾引きてまどに寄るなり秋の夜の月
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 鏡の間はベルサイユ宮殿の一室の鏡で張りつめた間のことである。大広間の一つになつて居て、窓は広い森に向いて開かれてゐる。是れは鏡の間の方から隣の部屋へ今出て来た皆夜会服の裾を長く引いた貴女達で、其の人達はこの間の広い窓の傍へ寄り、秋の夜の月の明るい庭を眺めるのであつたと云つてある。ルイ十三四世の頃の宮廷の光景を描いて居るのであつて、漢詩の宮詞と云ふやうなものである。沈香亭の北の欄干に倚つて牡丹を見て居た楊貴姫は牡丹の花と同じやうに想像され、このルイ朝の貴女達は秋の月のやうな麗人であることを思はしめる。
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曇る空波のしろきを前にして網を打つなり真裸《まはだか》の人
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 曇つた空が上にあつて、下の海には白い波が立つてゐる。この風景を前にして裸体の人が網を打つて居ると云つてあるが、壮重な感じは一漁夫が立つて居るとする方にあるが、私は漁夫が幾人も居ると見る方がよいと思ふ。其れをこの言葉だけで表現し足りないとは思はない。裸男の大勢の力が集められて居ても大海や空に比べては小さいものであらうから。
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木立みな十字にとがり太陽も十字に光る冬枯の上
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 どの木も十字に見え、それに射《さ》す太陽の光も十字の形に落ちて来るとより見えない、寂しい冬枯の日の園の景色。
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象の背の菩薩の如く群青《ぐんじやう》と白の絵の具の古び行く秋
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 象の背に乗つて居る普賢《ふげん》菩薩の古い仏画のやうに、秋は白であつて群青色であつて、そして日日その仏画のやうに古く錆びが附て行くと云ふのであつて、作者が思つて居る普賢の像の著衣は青色の鉱物性の顔料で描かれたものであつて、顔には厚く胡粉が重ねられてあるのであらう。其れのみならず初めから灰色を塗られた象の姿も作者の目に映つて居る筈《はず》である。更け行く秋を作者はこんな風に見た。
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一切に背を向けながら入る如き甘さを感ず劇場の口
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 芝居の入口に達した時の心もちに、是れで一時的にもせよ世間と断たれた世界へ身を置くことになると云ふ満足がある。気に入らぬ一切の物に背を向けて遺ることの出来る快感を感じるのはこの時であると仄《ほの》かながらも覚えると云ふ歌。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
かの隅になにがし立ちて叫べども振る手のみ見ゆ群衆の上
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 一方の隅に名士の某が立ち高い声を放つて演説をしてゐるやうであるが、何も聞《きこ》えるものでない、大衆の居る上に振る手だけが滑稽に見えるだけであると云ふのであるが、議論をする事を嫌つた後年の作者は、さうしたものは皆無用な精力の浪費であると云つて、若い人は創作をのみ熱心にすべきであると説いて居た其の心もちと取るべきである。
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拳《けん》を打つ二人の男たやすげにすべてを拒む形するかな
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 拳と云ふものを目に見ない人には一寸《ちよつと》解り難い歌かも知れぬ。手の指を種種な形にして相手と亘《わた》り合ふのであるが、其の中に二つの手を前向けに立てて突出す形がある。指の二三本で変つた形をして居る時よりもこの時の形が派手で目に附き易い。形は物を拒否する姿になつてゐる。
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