ふものの相手が幾分甘く見られて居ることは歌の調子に見える。
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堪へがたし思ひの火より救へよと我がよぶ時に君もまた呼ぶ
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 情熱の火に焼かれつつある堪へ切れない心を救つてくれと最後の悲鳴を上げた時に、同じ言葉が恋人の口からも叫ばれたと云ふのである。呼ぶと云ひ、悲鳴を上げると云つても他の世界へ向つてして居るのではなく、二人だけの世界に於てであることは云ふまでもない。これはこの作者持まへの綺麗な出来上りを避けて、態《わざ》と調子構はずに云つてある所などは前の歌の技巧とは正反対である。
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溢るるは唯《た》だにひと時おほかたは醜き石をあらはせる川
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 是れは象徴歌である。若若しい感情が豊富に胸から溢れ出して、良い芸術が幾つでもやすやすと出来上り、自らを満足させることは、雨後の出水時にだけ見ることの出来る山川の勢ひよさで、幾日も続くことではない。後は涸れて堅くなつた頭脳を苦苦しく思ふばかりである。石ばかりがごろごろとした醜い山の渓の其れのやうにと自嘲した意。
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工場に汽笛は鳴れど我れを喚ぶ声にはあらず行く方も無し
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 作者はまたしよんぼりと街を歩いて行く。この時に近い工場で作業の初まる汽笛が鳴つた。然《しか》し其れは自分に向つて呼びかけてくれたものではない。同じ道を今日まで同一方向に歩いて居た男女は、今の音のため皆多少の血の気を頬に上らせて居るが、相変らず何処へ行つてよいか目的無しに自分は歩くばかりであると云ふ歌。
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知らぬ人われを譏《そし》ると聞くたびに昔は憎み今は寂しむ
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 自分をよく知らない人が自分を譏つて居る噂などを聞くと、昔はよく腹が立つたものであつた。今はそんな時にも怒る気にはならないで人生の寂しさをいよいよ深く思はせられるだけである。
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くれなゐの秋のひと葉を手に載せぬ若返るべきまじなひのごと
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 真赤に染まつた紅葉の一片を自分は手に載せてゐる、大切に大切に思はれて長く捨て去ることが出来ない。かうして居れば青春が返つてくるまじなひかのやうにと云ふのであるが、葉は楓でなく柿の葉では
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